桃山駅
桃山駅(ももやまえき)は、京都府京都市伏見区桃山町鍋島にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)奈良線の駅である。駅番号はJR-D05。 伏見桃山陵、伏見城のある桃山丘陵の南西部に位置し、大手筋通に接する。 歴史奈良鉄道の手で開業した当初、当駅から京都駅までは伏見駅経由のルートであったが、1921年の東海道本線の馬場駅(現・膳所駅) - 京都駅間のルート変更に合わせ、同線旧ルートの稲荷駅 - 京都駅間を編入した現在のルートに切り替えられた。なお、旧線の当駅 - 伏見駅間はしばらく貨物線として存続していた。 もともと伏見駅 - 木幡駅間に駅を設ける予定はなかったが、当時、近くに西本願寺の三夜荘という別荘があり、ここからの風景を愛した大谷光尊法主の強い要望と主張により、「桃山」という名称の駅を作ることになった。駅の設置に関して奈良鉄道から寄付が求められたため、伏見町、堀内村、大谷光尊法主がそれぞれ500円ずつ寄付した。「寄付でできた駅であるので、駅名は地元で決めて欲しい」ということになり、地元は地元の村名をとって「堀内」を希望したが、大谷光尊法主が強く「桃山」を主張したことから桃山駅となった[2][注 1]。 1912年(明治45年)7月30日に明治天皇が崩御。伏見桃山が陵墓地に選定され、桃山駅は大葬列車を迎えるため、急いで拡張と整備の工事がなされ、現在の3番線の北側にあたる御陵側に新たに大喪列車の柩が下車する仮停車場ホームと駅前広場が整備された。 昭和になり、昭和天皇即位大礼のための拡張工事が竣工。大喪列車の仮停車場跡に御陵参拝用の改札口が設置されお召し列車が運転された。駅から御陵参拝口まで敷地は広がり、現在のホームから2本の跨線橋があり、その向こうの高台に多くの改札口が並んでいた。改札の前は玉砂利を敷き詰めた広場で、その向こう側に明治天皇や乃木将軍に関するものを扱う土産物屋が並び、日の丸も林立していた。この改札は「御陵口」と呼ばれ、1928年(昭和3年)から1951年(昭和26年)まで使用された。 その後の日本の軍国化の動きと連動して「明治天皇桃山御陵参拝」が日本中で行われるようになり、桃山駅は整備拡大を続け、駅舎は改築されて貴賓室が設けられ、桃山駅長は「指定職」という京都駅なみの地位に格上げされた。1932年(昭和7年)の1月の桃山御陵参拝人数は約15万人、この年10万を超えた月は6ヶ月もあり、桃山駅の1日乗降客が8万人といわれた日もあった。 第二次世界大戦後は駅は活気を失い参道の商店街も消え、御陵口は廃止され皇室用の線路とホームは貨物用側線に転用された。駅から御陵参拝口まで広がっていた参道は御陵の森と呼ばれる現在の姿になり、御陵の森の中には当時の建物跡を見つけることができる[3]。現在、駅の北東側の線路に面した一戸建て群と保育園に当たる部分が御陵口駅舎と駅前広場の跡地である。貨物の取り扱い廃止後も駅北側の住宅街の工事が開始されるまでは、元の大喪列車と皇室用のプラットホームの一部が残っていた。 年表
駅構造単式2面2線のホームを持つ地上駅である。駅構内が大きくカーブしているため、快速列車などが通過する際は、減速(35km/h制限)して通過する。かつては単式・島式の複合型2面3線の構造であったが、バリアフリー化に伴い3番線が撤去されて現在に至る。 宇治駅が管理し、JR西日本交通サービスが駅業務を受託している業務委託駅である。ICOCA等のICカード乗車券が利用することができる。なお、当駅はJRの特定都区市内制度における「京都市内」の駅でもある。 2017年よりバリアフリー化工事が行われ、2020年度内にエレベーター、屋根付き跨線橋、多機能トイレが完成した[10]。 のりば
利用状況京都府統計書によると、1日の平均乗車人員は以下の通りである。
年度別1日平均乗車人員(1930年代—1940年代)各年度の1日平均乗車人員は下表の通り[14]。
駅周辺少し離れてはいるが、西に近鉄京都線の桃山御陵前駅、京阪本線の伏見桃山駅、南には京阪宇治線の観月橋駅がある。いずれも徒歩10分程度の距離がある。
バス路線
隣の駅かつて存在した路線脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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