栗谷川健一栗谷川 健一(くりやがわ けんいち、1911年2月28日 - 1999年8月12日[1])は、北海道岩見沢市出身[1]の画家・グラフィックデザイナー。 人物観光ポスターを中心に北海道の自然・酪農・アイヌ文化をモチーフとしたイラストを数多く描き、さっぽろ雪まつりや札幌オリンピックなどのイベントにも携わり「北海道デザイン界の父」とも評される[2]。生涯を通じ北海道を拠点に活動、独自の趣きを持ったポスター類は北海道観光の起爆剤の一翼を担い、企業のカレンダーやパッケージ、デザイン学校の経営にも携わり幅広く活躍した[3]。 来歴生い立ち1911年に岩見沢の開拓農家、林忠太郎・たまき夫妻の第7子3男として生まれたが、生後数日で母の妹きくよと製材所職員の栗谷川衛の夫妻の養子となる。その後岩見沢尋常高等小学校(現・岩見沢市立岩見沢小学校)に入学し、自らも油絵を制作していた図画・音楽教師の阿部幸平の指導を熱心に受け父の理解もあり美術への関心を高める。しかし1922年に養父が結核で死去し美術学校への進学を断念、養母の再婚に伴い栗山町へ引っ越し栗山尋常高等小学校(現・栗山町立栗山小学校)高等科に編入[1]。 看板職人時代高等小学校卒業後1924年に札幌の中野看板店へ徒弟奉公し大型の映画看板やポスターの制作を学び、仕事柄映画館の出入りが無料だったことから盛んに映画鑑賞をし映画のカメラアングルや照明効果が後の観光ポスターの作風に大いに役立つこととなった。また中野看板店時代には後に日本宣伝美術会の事務局長を務める兄弟子の板橋義夫に刺激を受ける。1927年には小樽松竹座専属となった中野看板店店主の弟について小樽へ移住し映画看板職人となり月給を貰うようになる[1]。 1931年には函館松竹座の専属看板職人として独立。1932年には2週間東京に滞在し最新の映画ポスターや看板などを学んだ後軽度の肺結核により養母の住む栗山で療養[1]、その後東京で目にした洗練された技法を参考とした看板は同業者からも注目を浴び函館市内の映画看板には栗谷川の手法を真似たものが多く見受けられるようになり、この頃から映画看板にとどまらないデザイナーへの憧れを強める[3]。また美術団体「図案研究会」を立ち上げ棒二森屋にてグループ展を開催、しかし1933年には小林多喜二虐殺事件の抗議ポスターを制作し函館市内に貼り出したことをきっかけに特高警察に逮捕され20日間拘留の後釈放されるも1945年の終戦まで毎月特高警察職員が自宅を訪れ消息を確認していた。同年秋には渡辺静江と結婚[1]。 ポスター作家時代1934年の函館大火で勤務先の松竹座が消失し、避難民として札幌へと移り其水堂金井印刷所に転職、NHK札幌中央放送局が発注したラジオ体操ポスター「JOIKラヂオ体操の会」を原画から製版まで手掛けたことをきっかけに印刷美術に進出しポスター制作の根幹となる描き版による印刷技術を学ぶ。また印刷所の同僚から紹介された能勢眞美の指導で立体的な表現を学ぶ[1]。1935年には妻の妊娠出産のため再度函館に戻り辻印刷所に転職したが、松竹映画のポスターが地域の印刷所を介さず本社で制作し全国の映画館へ送付する形となったことから業務が減少し長男の誕生から間もない1936年5月に解雇[1]。 同年「クリ図案社」を設立し印刷業務の減少から商店装飾や大工仕事など雑多な業務を行い生計を立て、鉄道省札幌鉄道局の冬の北海道観光ポスターにて一等入選し翌年にも連続で一等入選したことから札幌鉄道局の嘱託画家として迎え入れられ観光ポスターを主に描くこととなり、またチラシや新聞雑誌広告も手掛けた。しかし1939年に戦時体制による輸送統制で観光需要の喚起が行われなくなり1940年に鉄道局の嘱託を解かれ、制作の場を求め図案研究を主とした美術団体「筆洗社」を設立。1941年には松竹北海道支社に入社し再度映画ポスターを担当するも翌年に映画配給社へ統合され新聞広告を手掛けるのみとなった。1942年に召集され丙種合格だったため前線へ向かわず旭川第7師団で教育訓練の後除隊となり札幌都市防衛隊に配属され終戦を迎える[1]。 戦後終戦後は映画配給社解散に伴い東宝北海道支社に入社、1946年に退社しフリーとなる。1947年札幌鉄道局から発注された戦後初の大判観光ポスターをきっかけに官民各所から幅広い発注を受ける一方で、博覧会の展示意匠も手掛けた。1948年に研究団体「創図社」を設立、1950年にはさっぽろ雪まつりの第一回ポスターを手掛け好評につき8年間連続で同デザインが使われた。また同年にはカラー4色分解技術を初めて用いて阿寒・大雪山・支笏洞爺の道内3国立公園のポスターを制作[1]。 1951年、日本国有鉄道・全日本観光連盟・日本交通公社主催の全国観光ポスターコンクールにて阿寒湖のポスター原画を出展し当時朝日新聞西部本社広告部に所属した松本清張と並んで推薦を受ける。翌年には同コンテストで「夕日と牧車」で特選を受賞し初の個展を札幌の大丸藤井にて開催、日本宣伝美術会北海道地区を結成し地区委員長に就任。1953年には「牧場の鐘」で広告電通賞ポスター部門、IUOTO世界観光ポスターコンクールで「ムックリを鳴らすアイヌの娘」で最優秀賞を受賞し世界的評価を受ける[1]。 これらの成功をきっかけとして札幌でのしがらみからの解放や全国的な仕事を求めて1950年代前半には東京へ拠点を移す事も検討したものの、東京の友人から「既にお前は北海道で一つの仕事を完成させつつある、東京に来て何をしようとするのか」と説得され北海道での活動を継続することとなった[1]。 1956年には1951年全国観光ポスターコンクールに出展した作品をもとにした「伝説の湖」で再度IUOTOのコンクールにて最優秀賞と一般市民投票1位を獲得。1958年には東京オリンピック招致ポスターを手掛け、その後札幌冬季オリンピック招致ポスターも手掛けた[1]。 1962年「北海道デザイン研究所」を創立し北海道ドレスメーカー女学院の教室を間借りしデザインの講義を行い、多くのデザイナーや美術家を輩出し日宣美の活動と合わせ北海道のデザイン界の底上げを図った。1967年にはデザイン研究所講師らとの共同研究による案で北海道旗・道章デザインコンペに出展し採用、1972年札幌オリンピックのデザイン専門委員会に参加[1]。1971年には北海道開拓記念館の常設展示を担当するなど公共施設へのデザイン業務も数多く担当した[1]。 晩年1979年には北海道デザイン研究所が「栗谷川学園北海道造形デザイン専門学校」(2015年3月閉校)に改組、1982年には北海道デザイン協議会を発足し初代会長に就任。1984年には後に札幌芸術の森となる札幌芸術村建設委員会の建設企画委員に就任し、1986年に財団法人札幌芸術の森理事に就任[1]。 1991年北海道デザイン協議会名誉会長就任、1999年8月12日に肺炎のため88歳で逝去[1]。 全北海道広告協会賞においては、栗谷川の活躍を記念しその年に目覚ましい活躍をしたクリエイターに送られる賞として「栗谷川健一賞」が設定されている[4]。 作風ダイナミックな北海道の自然や広大さを強く打ち出すべく、俯瞰的な形や遠近感を強調した極端な構図でドラマティックな印象を強め、ロングショットや明暗の強調といった映画的手法も取り入れ、ポスターカラーに糊を混ぜ粘性を生み出しペインティングナイフで絵の具を盛り上げ油絵風のタッチとし、また製版時には横からのライトの光を加え撮影を行い細かな影を写すことで絵の具の盛り上げを強調して独特のタッチを生み出した[1]。 受賞歴
主な作品
関連資料
脚注
参考文献
外部リンク
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