木更津駐屯地
木更津駐屯地(きさらづちゅうとんち、JGSDF Camp Kisarazu)は、千葉県木更津市吾妻地先に所在し、第1ヘリコプター団等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。 概要海上自衛隊の航空補給処は駐屯地内(同市江川無番地)にあるが、航空自衛隊入間基地の木更津分屯基地は、飛び地(同市岩根1丁目4−1)に所在している。駐屯地と飛び地は、片側2車線の道路で結ばれている。なお、この道路の東側と西側の沿道には、戸建住宅が多い。駐屯地司令は第1ヘリコプター団長が、分屯基地司令は航空自衛隊第4補給処木更津支処長が兼務。敷地内に、陸上自衛隊木更津飛行場があり、第1ヘリコプター団の拠点となっている他、主要国首脳会議などで、海外の首脳が来日した際等に使われる賓客の移動専用のEC-225LPヘリコプターの運用を行う特別輸送ヘリコプター隊が駐屯している。また、駐留部隊はいないものの、在日米軍の補助飛行場に指定されており、施設が提供されている。 有事の際は、第1ヘリコプター団のヘリコプターを速やかに習志野駐屯地に向かわせ、そこに駐屯している第一空挺団や特殊作戦群の隊員をピックアップし、直接現地へ向かうか、または木更津飛行場や海上自衛隊下総航空基地へ移動し、航空自衛隊の入間基地より飛来したC-1輸送機に乗せ換え日本全国へ展開させる。 元々は大日本帝国海軍の航空基地として埋め立てられたものであり、帝都防衛の他、硫黄島への連絡などにも使われていた。開隊時の詳細は木更津海軍航空隊の項を参照のこと。第二次世界大戦末期には日本初のジェット機である橘花が初飛行した場所でもある。 1945年(昭和20年)9月にアメリカ軍が接収した後、しばらくは米空軍の基地(木更津エア・ベース)として使用されていたが、1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が発足し、輸送機部隊や飛行点検隊などが主に使用するようになり、その後、米空軍の部隊は1961年(昭和36年)に立川飛行場(東京都・1977年(昭和52年)全面返還)に移転、施設の管轄権が米空軍から米海軍へ移動した。 1968年(昭和43年)には航空自衛隊の部隊が入間基地に移転し、同年、霞ヶ浦駐屯地(茨城県)から陸上自衛隊第1ヘリコプター団が移転、陸上自衛隊木更津駐屯地として現在に至っている。 また、1968年(昭和43年)12月の第9回日米安全保障協議委員会における在日米軍施設区域調整計画で基地返還が検討されたが、米軍が「不可欠の任務のため当施設を継続的に使用する権利を有する」ことになり、現在まで全面返還は実現していない。その後、第7艦隊の空母に所属する故障中の艦載機が格納庫へ搬入されていたこともあり、1975年(昭和50年)に米海軍の部隊が横須賀海軍施設(米海軍横須賀基地・神奈川県)に移転したのちは、米軍の使用実態はほとんど無いものの、現在も日米地位協定では2条4項a(II-4a)における米軍管理・自衛隊共同使用施設・区域という位置づけとなっている。 日米安全保障条約上の施設名称は「木更津飛行場(施設番号:FAC 3033)」で、アメリカ海軍は「Kisarazu ALF(Auxiliary Landing Fieldの略)」という呼称を用いることが多い。 航空自衛隊地区は2010年(平成22年)に発覚した航空自衛隊事務用品発注官製談合事件の影響を受け、2013年(平成25年)8月1日をもって航空自衛隊第1補給処が廃止、「航空自衛隊第4補給処木更津支処」に改組されるとともに、基地から分屯基地に縮小された[1][2]。
航空管制
航空保安無線施設2016年3月31日改訂の航空路誌によると、長らく基地内に設置されていた木更津VOR/DME局(識別符号:KZE)は廃止され、同日より木更津TACAN局が運用開始となった。同日より保守は東部方面管制気象隊に移管。
以下はかつて、運用されていた木更津VOR/DME局の諸元である。
沿革陸上自衛隊木更津駐屯地
駐屯部隊陸上総隊隷下部隊
東部方面隊隷下部隊
防衛大臣直轄部隊所在機関(木更津地区)防衛大臣直轄機関※住所は木更津市江川無番地である。 所在機関(木更津分屯基地)防衛大臣直轄機関
※木更津市岩根1丁目4−1に所在する。 最寄の幹線交通
メディアへの露出映画『ガメラ』シリーズ
「木更津4姉妹」と「痛コブラ」
脚注
外部リンク |