数河高原
数河高原(すごうこうげん)とは、岐阜県飛騨市古川町数河(旧:吉城郡古川町数河)の集落に位置する高原地帯[3]。集落は国道41号沿いに位置し、飛騨市の中心部からは約13 km離れている[1]。気象条件は日本海側気候に属し[1]、真夏の平均気温は20℃前後と、冷涼な気候である[4]。飛騨地域でも屈指の豪雪地帯で[5]、年間累積降雪量は10 mを超える[6]。 一帯は夏の避暑地として知られ[7]、観光地[3]・リゾート地として開発されているほか、ラグビーの合宿地としても知られている[8]。2012年(平成24年)には、ぎふ清流国体のラグビーフットボール会場となった[9]。 本項目では、数河高原の位置する古川町数河(ふるかわちょうすごう)や、付近に位置する国道41号および国道471号の数河峠(すごうとうげ)についても併せて解説する。 地理数河(すごう)は、古川盆地の北部に位置し[3]、宮川の一次支川である戸市川[注 1][11](といちがわ)[10][12]源流部の山間小盆地にある集落で、上数河と下数河に区分される[14]。このうち、高原上に位置する地区が上数河である[15]。北は流葉山[注 2][17](ながれはやま、標高1,423 m[16])から[17]、高山(こうやま、標高1,336 m[18])への尾根で[17]、旧宮川村に接する[14]。東は旧神岡町に接している[14]。 標高は約900 - 1,000 mで、シラカバが自生している[3]。集落の面積は縦25町[注 3]・横1町56間[注 4][19]。高山への距離は6里12町[19](国道41号経由で約28 km)[20]。かつては笋(根曲笹の筍)[注 5]と菅の筵[17]、ないし農業を生業としていた村だったが、1968年(昭和43年)に地内を通過する国道41号が開通[注 6]して以降、主に中京地区の資本により、スキー場が進出するなど、観光・レジャー基地として開発が進められ、観光地として発展していった[3]。「飛騨の軽井沢」と呼ばれる場合もある[24][25][26]。 「数河」の地名は「菅生」で、かつてこの地の高層湿原に茂っていた菅[17]と、冬に山で取れる科の木の皮で、菅莚を作ることを本業にしていたことに由来している[3]。この数河以外にも、神岡町(現:飛騨市)や益田郡馬瀬村(現:下呂市)にも「数河」という名前の村(後の大字)があった[3]。 数河峠数河峠(すごうとうげ)は、国道41号・国道471号(旧古川町と旧神岡町の境)にある峠[27](標高896 m)[28]。国道41号最大の難所である[27]。かつては道幅6尺(約1.8 m)程度で路面状況も悪かったが、国道としての供用に伴い、飛騨地方における南北の幹線道路としての役割を果たすようになった[26]。 古川町市街地との標高差は約400 mで[29]、約20 kmにわたり、急勾配(6 ‰)のヘアピンカーブが続く[27]。特に、高山方面に向かって長い下り坂が続くため、スピードの出し過ぎ[注 7]などによる重大事故が多発し[30]、冬場の積雪時には、大型車(タイヤチェーン未装着)によるスリップ事故[注 8][29]・立ち往生[31]や、カーブでの横転事故なども発生している[32]。また、事故が発生するとレッカー作業のため、道路を通行止めにする必要があり、他の車への影響も非常に大きかった[29]。そのため、岐阜県警察の交通企画課や[27]、地元の古川・神岡の両警察署(いずれも現在の飛騨警察署)、高山国道工事事務所により[33]、速度違反・過積載の取り締まりや注意喚起、警戒標識・看板の設置などといった安全対策が重点的に取られていた[27]。また、2010年代以降も歩道[34]・登坂車線の整備[6][35]や、峠手前の路面(登坂車線と走行車線)の塗り分け(色彩心理の応用)[注 9]といった安全対策がなされている[36]。 2018年(平成30年)7月7日正午ごろ、記録的な大雨の影響により、国道41号で大規模な土砂崩れが発生し[37]、周辺の山から土砂10,000 m3が流入したことで、一時通行不能になった[注 10][38]。その後、2019年(令和元年)6月には、国が道路脇にコンクリート製の土砂流出防止枠を設置したり、県が崩落部分に谷止め工を行ったりした[38]。 歴史江戸時代は飛騨国吉城郡小島郷の数河村で、天正14年(1586年)から金森氏領になり、元禄5年(1692年)以降は幕府領になった[3]。1771年(明和8年)に木地挽を雇い入れようとし、下流5村[注 11]と争いとなったが、最終的には数河村側が譲歩することで決着した[15]。1844年(天保15年)には、数河村など6村が山内打込惣入会維持の証文を取り交わしている[15]。 1875年(明治8年)に、数河村が細江村の大字数河組となり、1889年(明治22年)には細江村大字数河となった[3]。さらに1956年(昭和31年)4月1日、細江村が(旧)古川町・小鷹利村と合併して(新)古川町が発足した[39]ことに伴い、古川町大字数河となった[3]。2004年(平成16年)2月1日には、古川町が同じ吉城郡の河合村・宮川村・神岡町と合併し、飛騨市が誕生[40]したことに伴い、数河も「古川町数河」から「飛騨市古川町数河」となっている[41]。 数河は江戸時代から明治・大正時代にかけ、隣村との交流がほとんどない陸の孤島で、道路状態が悪かったために車が使えず、大きな荷物は馬につけて運んでいた[42]。 観光地としての歴史1960年(昭和35年)には神岡町流葉山一帯、宮川村ニコイ高原とともに奥飛騨数河流葉県立自然公園に指定された[3]。1963年(昭和38年)には奥飛観光開発(名鉄系企業)による「数河高原スキー場」が営業を開始し[43]、1973年(昭和48年)にはスキー場・ゴルフ場・ホテルを併設した「飛騨ハイランド」(経営:飛騨ハイランド観光)が設立された[44]。スキー場の開発を草分けに、民宿が付随して発展していき[8]、1968年の国道41号開通[注 6]以降、観光地として栄えた[3]。 また、藤井清喜(ふじい せいき)[注 12][45](1979年当時:岐阜県ラグビーフットボール協会副理事長)が冷涼な気候に着目し、1979年(昭和54年)5月に数河高原の民宿3軒のオーナーに対し、ラグビー合宿地としての受け入れを要請[46]。民宿側も冬場のスキー客だけでなく、閑散期となる夏場の固定客を確保するため、藤井からの申し出を受け、手作りのラグビー場を整備するなどした[46]。また古川町もグラウンド5面を建設するなど、受け入れに積極的に協力した[46]。そのような受け入れ策が実り、大阪・京都の強豪チームや四国・九州などの遠方のチームなども合宿に訪れるようになり、ラグビーのメッカとされていた菅平(長野県)に倣い「岐阜の菅平」の名が定着するようになった[8]。また乗馬・アーチェリー・ボートなどが楽しめるレジャーランドがあり、大動物の剥製も展示されていた[47]。 数河高原スキー場周辺の国道41号沿線にはドライブインや民宿が立ち並び[47]、1980年(昭和55年)時点では冬季に数万人を超えるスキー客らでにぎわいを見せる観光地となっており[48]、1990年代ごろまでは冬のスキー客や、夏の(高校・大学)ラグビー部の合宿からの需要が高かった[49]。しかし数河峠の交通量は1978年(昭和53年)をピークに減少[50]。また、周辺の道路網(東海北陸自動車道・安房峠道路[50]・国道360号[51])の整備により、交通の流れの変化が生じたことに加え[50]、スキー人口の減少や[注 13][53]、奥美濃地方[注 14]・富山県内のスキー場との競合のあおりを受け[54]、2003年(平成15年)3月23日には「パルクすごうスキー場」(旧:数河高原スキー場)が営業を終了[55]。加えて、2000年代にはラグビー人気低下の影響を受け[46]、合宿に訪れるラグビーチームの減少などにも悩まされるようになった[49]ほか、過疎化や農業の低迷が進み[56]、休耕田も増加するようになった[57]。 2000年代以降は、グリーンツーリズムの開催や[49]、地元の休耕田で栽培・収穫したソバを用いた「数河そば」の提供[58]、「お助け水」と呼ばれる湧水[注 15]を用いた休耕田でのワサビ[注 16]栽培[56]、特産品であるタケノコ[注 5]を加工した缶詰「飛騨 菅生(すがふ)竹の子」の販売など、地域おこしに力を入れている[21]。 数河高原スキー場数河高原スキー場は、奥飛観光開発が1963年に営業を開始したスキー場である[43]。標高約1,000 mに位置し[60]、1981年時点では12月下旬から翌年3月下旬[47]、1990年時点では12月中旬から翌年3月末にかけて営業していた[61]。コースは全長1,500 m(2コース)、面積は約20 ha[54]。リフトは2基あり、ゲレンデ中央にあった第一リフトは440 m、ゲレンデ西側にあった第二リフトは560 mだった[62][63]。また1992-1993シーズン時点では、リフト2基と別にスノートロイカ1基が設置されていた[62]。 雪質はパウダースノーで[60]、雪質の良さと北アルプス連峰の眺望を売りとしており[63]、スキー場からの北アルプス(穂高連峰、乗鞍岳から薬師岳まで)の眺望は飛騨地方でも屈指と言われていた[64]。全体的に緩やかな斜面が多かったが、ゲレンデ奥には26°の壁や連続するコブなどもあり、中上級者の練習用にも利用されていた[65]。ファミリーやスノーボーダー向けのスキー場であり[54]、場内には「チビッ子広場」「わんぱくランド」なども設けられていた[66]。またスキー以外のスノースポーツ(スノーボード・スノーモービル・4輪バギーなど)も可能で[60]、1970年時点では、当時の日本では珍しかったボブスレーのコース(初心者向き)があった[67]。駐車場は1972年時点ではゲレンデ前の第一駐車場(乗用車250台・バス30台)、バス停前の第二駐車場(50台)があり[63]、1992年時点では800台分あった[62]。ゲレンデおよび駐車場は国道41号に面しており[62]、道路向かいには「ドライブインすごう峠」があった[48]。 1993年1月時点で「スノーランドすごうスキー場」に改称しており[注 17][71]、1992-1993シーズンには駐車場および第1リフトの乗り場付近にスキーセンターが新設されていた[62]。1995年(平成7年)には本格的なハーフパイプ(スノーボード専用コース:全長100 m・斜度13.3°)を新設し、同シーズンは入場者数が過去最高(56,000人)を記録した[72]。 1972年(昭和47年)当時の所要時間は、名古屋から自家用車もしくはバス利用の場合は国道41号経由で約4時間、列車利用の場合は高山本線の特急「ひだ」停車駅である飛騨古川駅からバスに乗車(「数河高原」で下車)して約30分だった[63]。名古屋[注 18]をはじめ、岐阜市や北陸方面からの家族連れや若者でにぎわっていた[60]。しかし1991年シーズンに47,000人を記録した入込客(下段索道輸送実績)は、1992年シーズンに33,500人、1993年シーズンに38,000人[74]と下落が続いた。「スノーランド」時代は年間約26,000人の利用者がいたが[54]、奥飛観光開発が撤退する直前は、入場客数が10,000人台(バブル期の3分の1程度)と低迷していた[43]。 このようにスキー客の大幅な減少が続き[60]、1999年(平成11年)秋には奥飛観光開発が「スノーランドすごう」の経営から撤退することを決める[60]。スキー場周辺の宿泊施設(約20軒)にとって撤退は死活問題であるため、地元のスキー場存続を望む声は強く、奥飛観光開発や古川町・数河高原観光協会による協議の結果、地元の民宿経営会社が営業を継承することになった[60]。奥飛観光開発は町の仲介を受け[60]、リフト(2基)・レストラン・無料休憩所などの施設を、すべて無償で新たな経営母体となった民宿経営会社に貸与することとした[43]。民宿経営会社は古川町からリフトなどの固定資産税補填分として、年間250万円の補助を受け[54]、同年12月18日以降[43]、数河高原観光協会の経営する「パルクすごうスキー場」として営業するようになった[54]。リニューアル当時は3年間様子見する予定だったが、後に1年間営業を延長し、地元の旅館などの支援でリフト設置・イベントなどを続けていた[54]。リニューアル後は誘客のために様々な営業施策(毎週月曜日に女性・子供のリフト料金を無料とするなど)を行ったが[60]、利用者数は1999年度に約9,400人、2001年度は大雪による伸び悩みなどから約8,500人と低迷し続けた[54]。加えて年間約250万円の赤字が続いたことや、古川町の飛騨市への合併(2004年2月)後は市内の他のスキー場とも競合することが予想されたため[54]、2003年3月23日限りで営業を終了して閉鎖された[55]。 閉鎖後の2005年(平成17年)以降は地元の有志らがスキー場跡地などを用い、スノーモービルを一般客に貸与する「数河モービルランド」を運営している[75]。また旧駐車場(国道41号沿い)には「タンナカ高原の水」の無料水汲み場が設置されている[76]。 飛騨ハイランド飛騨ハイランドは、飛騨市古川町数河80-1[77]に所在していたリゾート施設である。2021年現在は飛騨数河リゾート&カントリークラブ(ゴルフ場[78]・別荘地[79]、温泉施設[80])として営業している。 1973年に開設され、積雪時にはスキー場、非積雪時にはゴルフ場として運営されていた[44]が、スキー場は併設する「飛騨ハイランドホテル」宿泊客以外の利用者が少なかったことから、2005年 - 2006年シーズン以降は同ホテルの宿泊客だけを対象に営業していた[44]。その後、景気悪化の影響で来場者数が落ち込み、資金繰りが悪化したことから、運営会社の「飛騨ハイランド観光」が2010年(平成22年)3月17日付で東京地裁に民事再生法の適用を申請[81]。再生計画案に基づいて同月7月下旬に設立された新会社「飛騨数河リゾート」がゴルフ場やスキー場、ホテルなどの全事業を継承することとなり[82]、ゴルフ場は同年9月1日から「飛騨数河カントリークラブ」に名称を変更した[83]。なお、スキー場は2011年(平成23年)以降、修学旅行生のみに利用を限定し[52]、「飛騨ハイランドホテル」は同年時点で廃業している[84]。 タンナカ高原の水数河高原の源水は古来から「お助け水」として地元住民に利用されていた[85]。 「田中高原」(たんなかこうげん[86]、「タンナカ高原」とも表記される)は、宮川町種蔵[5]にある標高1,000 - 1,300 mの高原地帯[87]。数河高原と飛騨市宮川町菅沼地区(国道360号沿線)の中間に位置し[86]、落葉広葉樹(ブナ・シラカバ・トチ・ミズナラなど)による自然林が広がっている[88]。また付近には「池ヶ原湿原」と呼ばれる広大な湿原があり、春はミズバショウやシラヒゲソウなどの花が咲き、釣りが禁止されていることから多数のイワナが水面近くを泳ぐ姿を観察できる[89]。一帯の土地は、富山県富山市で「森井歯科医院」を経営する森井徹雄が所有している[87]。林道脇の岸壁(標高1,200 m)から湧き出る湧水は、奥飛騨原水[90]、タンナカ高原の水[5]、高原水[7]と呼ばれる。 この湧水は弱アルカリ性の軟水で[注 19]、ミネラル(カルシウム・カリウムなど)が多く含まれる[5]。この水は、タンナカ高原に降った雨や雪解け水が[91]、先カンブリア時代の地層である「飛騨片麻岩」の地層[92]に染み込み、数百年 - 数千年以上後に湧出したものである[91]。 上馬場和夫(帝京平成大学東洋医学研究所教授 / 元富山大学和漢医薬額総合研究所客員教授)や森井らによる調査の結果、抗酸化作用の可能性が示唆されている[93]ほか、抗糖尿病効果(インスリン分泌促進薬の効果増強)が確認されている[94]。 1999年(平成11年)時点では「お助け水」をミネラルウオーターとして加工した「奥飛騨深山“天霊水”」がスギー産業株式会社から販売されており、中日ドラゴンズの選手たちにも愛飲されていた[85]。2005年(平成17年)からは「タンナカ高原の水」を加熱殺菌したものがミネラルウォーターとして販売されているほか、2006年(平成18年)には水源地の地主である森井が、旧「パルクすごうスキー場」駐車場[90](国道41号沿い)[76]に無料の水汲み場(約3.5 km離れた水源地からパイプで導水)を設置[90]。県内外から多くの人が水を汲みに訪れているほか、高山市の酒造店がこの水を使った日本酒(深山菊「奥飛騨原水仕込み ひやおろし」)を秋の限定酒として販売し、人気を博している[95]。 世帯数と人口2015年国勢調査によれば、世帯数は71世帯で、人口は176人である[96]。 人口の変遷人口の推移(平成以降は国勢調査による)。1995年・2000年は吉城郡古川町数河、2005年以降は飛騨市古川町数河である。
農業村高は元禄検地の際は106石余(反別49町9反余)、安永検地の際は129石余[3]、『飛騨国郷帳』によれば129石8斗1升3合[102]。 江戸時代 - 明治時代はタケノコ[注 5]が最大の産物だった[21]。『斐太後風土記』(大正4 - 5年)によれば、米15石・ヒエ125石[注 28]・大麦10石・小麦5石・大豆20石・アワ7石2斗・ソバ8石・麻36貫目・大繭20貫目・小繭100貫目(生糸600目)などを生産していた[19]。特産品は猿頭木・菅莚・タケノコ[注 5]など[3]。また、栃・栗・楢などの実を夫食として重用していた[15]。 また、21世紀時点ではワサビ・ソバの栽培や、タケノコの缶詰の販売(前述)などのほか、地元の畜産会社「山勇畜産」による飛騨牛の肥育も行われている[103][104]。同社は1965年(昭和40年)に創業され、2016年(平成28年)時点で約850頭の飛騨牛を肥育しており、県の畜産共進会、和牛育成技術コンテストで最優秀の受賞歴がある[105]。 学区小学校は飛騨市立古川西小学校、中学校は飛騨市立古川中学校の通学区域で、数河地区からは両校へのスクールバスが運転されている[106]。かつて古川町立数河小学校[107]・古川町立数河中学校[108]があったが、前者は1969年度(昭和44年度)に古川西小学校へ統合され[107]、廃校になった[3]。また、後者も1966年(昭和41年)4月に古川中学校と統合され[108]、廃校になっている[109]。 文化数河獅子(すごうじし)[110]と般若踊(はんにゃおどり)[111]が伝承され、いずれも岐阜県の重要無形民俗文化財に指定されている[15]。数河獅子は、上数河の白山神社[112](宮田白山神社)[110]と、下数河の松尾白山神社で、毎年9月5日に1年交替で奉納される獅子舞で[110]、豊穣への感謝を込めて行われる祭りである[112]。その起源は、大宝年間(701年 - 704年)に数河に住んでいた新羅の僧が、獅子が乱れる姿を獅子舞にしたものを後世に残し、17世紀に現代の姿になったものとされている[113]。 般若踊は、般若経を広めるために踊られたと伝えられており、緩やかで素朴な踊りが特徴である[111]。 施設スキー場・キャンプ場・ゴルフ場・フィールドアスレチック・遊歩道などのレジャー施設が整備されている[3]。また、付近にひだ流葉スキー場(神岡町)がある[114]。
アクセス道路を利用した場合、飛騨清見IC(東海北陸自動車道)から約28 kmの距離にある[20]。飛騨古川駅(JR高山本線)からの所要時間は、タクシーで約20分[20]。
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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