幸野志有人
幸野 志有人(こうの しゅうと、1993年5月4日 - )は、東京都江戸川区出身[3]のサッカー選手。ポジションは主にミッドフィールダー[3](セントラル・ミッドフィールダー[1][4])。 来歴3歳の時にサッカーを始め[2]、小学校卒業後にJFAアカデミー福島に進んだ[5]同アカデミーの1期生[3]。各年代の日本代表に選ばれており、2009 FIFA U-17ワールドカップには唯一の高校1年生選手として選出され[6] 出場を果たした。 2010年、当時のFC東京強化部長だった鈴木徳彦が「ジュニアの頃から図抜けた存在だった」[7] と幸野を高く評価しており、同クラブのキャンプに参加させてプレーぶりを確認し、プロ契約を打診。これに対し、アカデミーのスクールマスターだった田嶋幸三は、「幸野はアカデミー内ではレベルが違うから、早く出してあげた方がいい」と、16歳でのプロ入りを後押しした[8]。3月になり、アカデミーを途中卒校し[9] FC東京とプロ契約を結んだことにより[10][3]、アカデミー出身者初のJリーグ選手となった。背番号は28に決まり、同じ背番号28の前任者であるMF米本拓司を目標に挙げた[11][12]。 2010年シーズンは5月22日のナビスコカップ第3節新潟戦で初のベンチ入り。11月17日の天皇杯4回戦の千葉戦にて途中起用され、プロとして公式戦デビューを果たした[13]。 2011年より大分トリニータへ期限付き移籍[14]。17歳、Jリーグ史上最年少での移籍となった[15]。田坂和昭監督は幸野のボールキープ力とアグレッシブな守備を評価[16]。第12節栃木SC戦でリーグ戦デビューすると、ボランチとしてだけでなくシャドーストライカーとしても起用され[17][18]2列目からの飛び出しなど攻撃面での貢献も見せた[18]。 2012年、FC東京に復帰[19][20]。J1第9節柏戦でJ1での初出場を記録した。さらに試合経験を積むために[4] 同年8月より、FC町田ゼルビアへ期限付き移籍[21][22]。中盤の軸の一人として活躍し[23]、第36節大分戦でプロ入り後の初得点を挙げた。 町田で得た手応えを確かにすべく[5]、2013年よりV・ファーレン長崎に期限付き移籍[24][25]。長崎では主にFWに配され、ポジションを入れ替えながら攻撃する[26]ゼロトップを構成した[27]。 2014年シーズンは1年半ぶりにFC東京へ復帰[28][29]。同年のナビスコカップ仙台戦でFC東京での初先発[30] の機会を得るも[31] その後の主力定着はかなわず、同年8月よりジェフユナイテッド市原・千葉へ期限付き移籍[32][33]。終盤にかけて右サイドハーフの先発に定着し、巧みなパスで[34] 攻撃のアクセントとなった[35]。 2015年、FC東京へ復帰[36]。2016年のACL・全北戦において、FC東京トップチームでは1年10ヶ月ぶりに公式戦出場。リーグ戦開幕以後はU-23チームでの出場が続き[37]、同年6月20日にレノファ山口FCへ育成型期限付き移籍[38][39]。ボランチに配された。 2017年、古巣V・ファーレン長崎へ完全移籍[40][41]。 2018年9月8日、左膝の前十字靭帯を損傷し全治8ヶ月の重傷を負う[42]。2019年シーズンはJ2リーグおよびルヴァンカップの出場はなく、12月5日に契約満了が発表された[43]。 2020年2月17日、NPL(オーストラリア2部相当)のシドニー・オリンピックFCへの加入が発表[44]。しかし、今度は開幕前に右膝の前十字靭帯を損傷する重傷を負い、シーズン中の復帰が不可能だったため契約解除[45]。リバビリを続けながら次の所属先を探すことになった[46]。同年、父親の健一がゼネラルマネージャーを務める千葉県社会人サッカーリーグ2部の市川SCに加入し、公式戦復帰を果たす[47]。 2021年2月22日、関東サッカーリーグ2部に昇格した南葛SCに加入[47][48]。11月に南葛SCとの契約を解除し渡独した。 2022年3月3日、ドイツレギオナルリーガに所属するFCオーバーノイラントに加入したと発表があった[49]。 エピソード
所属クラブ
個人成績
選抜・代表歴
タイトル
個人脚注
関連項目外部リンク
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