字統
『字統』(じとう)は、白川静が編纂した字源辞典。昭和59年(1984年)に刊行し、同年、毎日出版文化賞特別賞を受賞、その後、『字統 普及版』(1994年)、『新訂 字統』(2004年)、『新訂 字統 普及版』(2007年)が刊行された。 概説本書は『字訓』(古語辞典)・『字通』(漢和辞典)とともに白川の字書三部作と呼ばれる。この三部作は白川文字学の集大成とされ、本書はその文字学の出発点にあたる字源の字書である。本書の収録文字数は約7,000字で、見出しは五十音順で配列されている。内容は漢字の成り立ちから、白川文字学の研究史が記され、文字学であるとともに古代文化の研究という性格をもち、引く字書であるよりも、読む字書であることを意図している[1][2][3]。
特徴新しい時代の字書本書は、久しく文字学の聖典とされてきた『説文解字』の訓詁の伝統を踏んでいるが、それを大きく覆す新しい漢字の体系を組み立てた漢字字書である[1][9]。
五十音順の配列『説文解字』では、9,353字にのぼる文字を六書の法で分け、部首による分類法を採用した。そのためその後の日本と中国の字書はこの部首法を用い、それをさらに分け入るにあたって画数順を適用し、長らくこの字引スタイルは変化していない。白川が字書をつくるにあたって、まずもって一新しようとしたのはこの点であった。白川は、「日本の現行の字書の配列はほとんどが部首法を踏襲している。この部首法は一種の便法として中国で用いられているものに追随しているにすぎず、国語としての漢字を扱う上からいっても、必ずしも適当な形式ではない。国語の語彙としてはその字音を用いるのであり、日本の字書が部首法によるべき理由はない。(趣意)」と述べ、本書では、漢字を国字国語とする立場から五十音順配列の方法を採用している。そして、字音は漢呉音、唐宋音のように区別があるときは、最も一般的な音に従っている。巻末には、字訓索引・総画索引・部首索引も用意している[19][20]。
収録字本書の収録した親字の総数は5,478字、副見出しとして示した字をも含めた見出しの総数は7,037字である。字数としては一般の中字典が約10,000字前後を収めるのに対してそれよりやや少ないが、国語の語彙として用いられる字はもとより、中国の文献を読むのに必要な基本的な字はほとんどこのうちに含まれている[3][27]。 国字政策への提言白川は、「いまの略字表・音訓表にみられるような国字政策上の無原則は、不合理を極めたものであると思う。この重大な決定がどのような学問的、また歴史的研究の基礎の上になされたものであるかについて、それを問う必要があると考える。(趣意)」という。そして、「『字統』は、漢字民族である中国の文化に奉仕するために書いたものではない。漢字を国字として用いるわが国の国字政策に寄与することを念頭において、その研究を進めたものである。『字統』によって国字政策の全体がその正しい文字知識の上に推進されてゆくことを切にねがうのである。(趣意)」と述べている[29][30][31]。
このような変更をしてしまったのが戦後の当用漢字、それを引き継いだ常用漢字である。どのような議論を経てこのような文字の変更が行われたのか、白川は国に問い合わせたが、「当時の資料は何も残っていないので分からない。」というのが国の返事であった[32][33]。
文字解釈例本書の文字解釈は経典の伝統的訓詁から出発し、青銅器銘文の出典、典故を得て、経典の訓詁を新しく読み直している。しかし、訓詁における思惟の形式自体は崩されることなく説解が行われている[36]。以下、本書の文字解釈の例(一部分を抜粋)を記す。
白川文字学白川の著作には漢字の分析が多く、白川は漢字学者とさえいわれるが、白川の学問の目的は、「東洋的なものの源流を求める」ということに発しており、その学問体系全体から見れば、漢字学・文字学はその一部に過ぎない。 白川は本質的には中国古代文学の研究者である。その研究上、文章の単位である漢字をまず研究し、その成果として漢字の原義を明らかにした。漢字の個々の原義研究においては多くの人々のすぐれた各個研究があるが、それは部分研究であり、一般性を持たない。白川学の特長は、体系性にある。その体系化された漢字の原義は、中国古代の文化・歴史・思想等の厖大な領域の研究の優れた道具となり、それによって中国古代学研究全体が大きく前進したのである[40][41]。 梅原猛は、「白川氏はほとんどすべての漢字を神の世界との関係で解釈するのである。このような漢字の大胆にして、しかも首尾一貫した論理性をもつ解釈をした学者は、世界にも白川氏を除いては存在しないであろう。私はそれをニーチェの業績に比したいと思う。(中略)ニーチェによってギリシャ世界の解釈は一変したわけであるが、白川氏は中国世界の解釈を一変させたのである。」と評している[42]。 古代研究と文字学白川ははじめ漠然と日本の古代を考えたいと思っていた。そして、古代の歌集である『万葉集』に惹かれ、これと中国の『詩経』との比較文学的な研究は興味深い課題であると考えた。当時の日本の古典研究では、柳田國男や折口信夫の民俗学的な研究が魅力的で、その民俗学の方法はすぐれていると思った。だが、どうにも対象に密着しすぎており、外からの視点に乏しいと感じ、このような観点から白川の研究は中国の古代を志向したのである[43]。
字書三部作『字統』(字源辞典)・『字訓』(古語辞典)・『字通』(漢和辞典)の三書を字書三部作と称す。3冊で約4,000ページに及ぶこの三部作は、白川文字学の集大成とされる[63]。 石牟礼道子は、「古代中国は殷帝国の甲骨文・金文を、東アジアに生まれた始源の文化として位置づけられ体系化され、ヨーロッパとはあきらかに異なる文化の位相を、現代の退化しつつある東洋と日本に示された。お仕事の頂点とされる三部作の字書『字統』『字訓』『字通』の完成がそれである。」と評している[64]。
文字学の資料漢字にはその最古の資料である殷王朝の甲骨文が大量に発見されており、当時の文字の全体を知ることができる。その最初の著録である劉鶚の『鉄雲蔵亀』が1903年に出て、その後、羅振玉(『殷虚書契考釈』、1914年)や王国維(『戩寿堂所蔵殷虚文字考釈』、1919年)らが研究を加え、今日に至るまでに多くの著録の書が出された。甲骨文の資料からは、その象形的な初形から次第に字形化されてゆく過程の終始を追跡することができるものもある。このような文字形成期の資料がこれほど豊富にその全時期にわたって存在するということは他に例を見ない。金文の資料も時期的に古いものは甲骨文と並行して存在する。それらはおおむね白川の『金文通釈』に収録されている[74][75]。
関連する白川の著作甲骨金文学論叢「甲骨金文学論叢」(こうこつきんぶんがくろんそう、1955年 - 1962年)は、白川文字学の体系を築いた実証的論文集で、20篇の論文からなり、後の『説文新義』や字書三部作の土台となった。昭和30年(1955年)より昭和33年(1958年)までの間に9集を発行し、昭和37年(1962年)に10集とした[40][79]。
白川は、これらの論考を草するために卜文の体系的な理解が必要であるとし、3万片に近い卜片を手写し、その解読に努めた。本書の内容は字源論と殷代雄族(部族)論とに大別でき、字源論には、「釈史」、「釈文」、「作冊考」、「釈師」、「釈南」、「蔑暦解」があり、雄族論には、「召方考」、「殷代雄族考 1 - 7」、「羌族考」がある。その他に系列字関係の字説として、「載書関係字説」、「媚蠱関係学説」、「辠辜関係学説」がある[40][79]。
金文通釈『金文通釈』(きんぶんつうしゃく、1962年 - 1984年)は、両周の金文銘辞の主要なものに詳細な考釈を加えたもの。郭沫若の『両周金文辞大系考釈』(1935年)があるが、その後の出土も多く、また郭の釈も簡略なものであるのでこれを補った[40]。 説文新義『説文新義』(せつもんしんぎ、1969年 - 1974年、全16巻)は、『説文解字』についての講義案を刊行したもので、『甲骨金文学論叢』を土台にしている。甲骨文・金文を知らずに組み立てられた『説文』の学説を甲骨文・金文の字形に基づく体系を構築することによって大きく書き換えた[46]。
字訓『字訓』(じくん)は、漢字を日本のことばの表記法として受容した時代の国語的状況を、古語辞典の形式でまとめようとしたもの。昭和62年(1987年)に刊行された。白川は、「日本人は漢字を音訓両用に使いこなし、それは同時に国字となった。国字と漢字を習合し、融会したところに国語が成り、その思惟の世界も、表現の世界も、その中に生まれた。『万葉集』、『日本書紀』、『古事記』の中にも、その表現のうちに苦闘する当時の精神のありかたが見える。そこに国語の出発点がある。その姿を見極めようと思って、私は『字訓』を書いた。(趣意)」と述べている[40][71]。 字通『字通』(じつう)は、漢字の成り立ち、意味、用例を追求した漢和辞典。平成8年(1996年)に刊行された。白川は、「今の日本では東洋の理念は全く見失われている。その東洋を回復するためには、まず東洋の古典に親しまなければならない。文字を通じて、その文字の表現する所を通じて、東洋に回帰する道を求めなければならない。そのために字書を通じて、その表現にふれる機会を多くもつ必要がある。そのような思いで私は『字通』を書いた。(趣意)」と述べている[40]。 字書を作る『字書を作る』は、字書三部作の製作に至る機縁と各字書の巻頭文、そして、『説文新義』第15巻「通論篇」の第5章「文字学の課題」を1冊にまとめたもの。平成14年(2002年)に刊行された[40]。 文字学の課題古代文字資料が出現してからのちの文字学の歩みを記したものである[40]。 目次[81]
字統の編集について目次[82]
字訓の編集について目次[83]
字通の編集について目次[84]
関連略年譜
脚注
出典・参考文献
関連項目 |