中国の書論中国の書論(ちゅうごくのしょろん)では、中国における書論の概要と歴史を記す。 概説書論の範囲はかなり広く、書について論じたものすべてを含むが、書体論・書法論・書学論・書品論の4つが主たる部門とされる。また、文字論・書評論・書人伝・書史などの部門も唐代までに出現し、宋代になると、収蔵と鑑賞・法帖・金石文などが加わって書論の部門はほぼ出揃う。これらの部門を単独に、または幾つかの部門を複合して著したのが中国の歴代の書論である。また書論を集成したものとして、張彦遠の『法書要録』、朱長文の『墨池編』、陳思の『書苑菁華』、韋続の『墨藪』などが唐代・宋代に編纂され、書の研究の貴重な情報源となっている。中でも『法書要録』の功績は大きく、古い時代の書論を得るには本書をおいて他にない[2][3][4]。 歴史
書論の発生期は漢代といわれ、最も古いとされる書論は趙壱の『非草書』である。漢代から唐の前半期までは書品が好んで行われ、四賢[5]を最上とし、その他の書人の作品が品第され批評される。これが伝統派の書論であり、その基本は南朝の書品論から出て、その第一は庾肩吾の『書品』である。隋を経て唐王朝になると、その伝統派の書論がますます洗練され、ここから二王を典型とする書道の精神が確立される。よって、伝統派の基本的な考え方は南朝から唐におよぶ書論に求めなければならない。そして、その文献の大部分は『法書要録』に収められている。 唐の後半期からは顔真卿・張旭・懐素などにより書の創作性を強調した新しい意識が芽生え、革新派の書論が起こってくる。これをさらに理論づけたのは北宋の欧陽脩・宋の三大家であった。またこのころ題跋の流行、『淳化閣帖』などの集刻、金石文の集録があり、これらも書論に取り込まれていく[2][6][7][8]。 元になると趙孟頫の主張により王羲之を中心とする伝統派への復古的傾向が強まり、明初もこの傾向が継承された。中期になると法帖が流行してその研究者による帖学派の書論が起こった。明末には董其昌が現われて革新派を受け継いだ書論を展開するが、この時代は飛躍的に書画の需要が高まり鑑賞が深まったため書画録が多く発行され、清に入るとますます流行した。清代の初期までは帖学が重んじられたが、その後、金石学の発展とともに碑学が勃興し、阮元・包世臣・康有為などにより帖よりも碑を重んじる碑学派の書論が盛大になった。日本に碑学をもたらした楊守敬は碑学・帖学の両方の著を残している[2][6][9]。 民国期も碑学は依然として盛行していたが、帖学派の書人(沈尹黙・潘伯鷹・白蕉など)が顕著な成果を上げ帖学が復興し、清末の楊守敬が碑学派の最後の書人となった。以来、帖学・碑学両派を超えて各名跡の長所を探ろうとする気風が起こり今日に至っている。民国期に脚光を浴びたのは清末に発見された甲骨文や簡牘を素材とした書表現であった。羅振玉は甲骨・簡牘の銘文・墨書の解読書である『殷虚書契考釈』や『流沙墜簡』(王国維共著)などを著したが、これはこれまで蓄積されてきた金石学の成果により、発見当初から高水準の考証を備えた著録であった。さらに、民国16年(1927年)に居延漢簡の発見があり、漢簡中の章草に関心を持った書人も少なからず現れ、これに帖学の復興が相まって草書の研究が飛躍的に進展した。于右任は草書の研究書『標準草書』を刊行し、その後、書体研究が相次いで興った[10][11][12][13][14]。 帖学派南北朝時代、南朝では四賢[5]の書を手本としたが、これらの書が紙や帛に書かれていることから帖と呼ばれた。唐の太宗の王羲之の書の愛好や宋の太宗の『淳化閣帖』によって帖の主流は王羲之が占めるようになり、その後、この『淳化閣帖』をもとに様々な法帖・集帖・模本が作られた。さらに、明の中期から江南の経済が発達して収蔵家が数多く出現して法帖の集刻が流行し、また、このころから真跡の入手が困難になって法帖を使っての学書が盛行した。この法帖を研究する帖学が姜宸英や王澍らによって興され、張照・劉墉・翁方綱によって大成された。帖学は王法を主とした伝統的な学書方法をとる立場で、その研究者たちを帖学派と呼ぶ。帖学派の書論として、王澍の『論書賸語』、梁巘の『評書帖』、馮班の『鈍吟書要』、楊賓の『大瓢偶筆』、梁同書の『頻羅庵論書』、楊守敬の『平帖記』などがある[6][9][15]。 碑学派宋の欧陽脩の『集古録跋尾』と趙明誠の『金石録』によって金石資料が集録されたが、元・明ではこの研究は衰退した。しかし、清代の学問が実証的になって考証学が興起し、その資料として金石文が注目された。金石学を興したのは清初の顧炎武であるが、これに刺激されて鄧石如・朱彝尊・鄭燮・金農らが漢碑を習うようになった。金石学に造詣の深い阮元は、『南北書派論』・『北碑南帖論』を発表し、「法帖の書は翻刻が繰り返されて真意を失っている。これに対し、碑刻の書は真跡に近い。よって書法の正統は北碑であり、北碑に学ぶべきだ。(趣意)」と主張した。帖学派の包世臣も阮元の説に同調し、『芸舟双楫』を著して碑学が興り、その理論を実践して漢碑や北碑を学ぶ人たちが現れた。この人たちを碑学派と呼び、清末には康有為の『広芸舟双楫』によってますます碑学派に気勢を加えた。碑学派の人々はみな帖学の素養を持ち、さらに篆刻にも造詣が深い。他に碑学派の書論として、楊守敬の『平碑記』などがある[6][15][16][17]。 理論体系中国の書論の理論体系として、康熙帝の『佩文斎書画譜』では、書体(書のスタイル)、書法(書の技法)、書学(書の考証的な研究)、書品(書の優劣上下を品第すること)という4つの部門に分けている。南朝の書論を見るとこの4つの部門が単独に、あるいは結合するなど色々な形式であらわれてくるが、この分け方は書を論ずるのに誠にうまくできているもので、書論の考究に十分役立つ。同書ではさらに、書家伝・書跋・弁証・鑑蔵という項目を付け加えているが、要約すると「書家の伝記」と「書の収蔵と鑑賞」ということである[2][18]。 書体論書体論(文字論を含む)は、書体の起源・美学・用筆法などについての論で、衛恒の『四体書勢』、庾元威の『論書』、張懐瓘の『書断』上巻などがある。許慎の『説文解字』序文では文字の起源である六書から各書体の起源までを説く。また、漢字の書体を初めて示したのは本書で、秦の八体と新の六体をあげている。南朝梁の『論書』には100体の雑体書[19]が書かれ、唐の『書断』では十体論を説いているように書体には数多くの名称があるが、その中心は、篆書・隷書・楷書・行書・草書の5体で、発生の順序は篆書・隷書と続いて草書・行書、そして最後に楷書である[2][3][20][21]。 書体の創始者
書体にはたいてい創始者が想定されているが、書体は突如として変化するものではなく、証拠もないので伝説とされることが多い。創始者想定の論拠として中田勇次郎は、「書体は徐々に変化していく中にその源流となるものがあらわれ、次第にスタイルを形成してそれが定型化してくる。そして書体の名称が生まれ、その時期に著名な書人があてられて創始者とされる傾向がある。(趣意)」と記している[20]。
篆書は大篆と小篆に大別され、『四体書勢』に大篆の創始者は史籀とあり、小篆の創始者が李斯であることは周知のとおりである。隷書は古隷と八分に大別され、『書断』に古隷の創始者は程邈とあり、『古来能書人名』に八分の創始者は王次仲(後漢の人)とあるが、前漢時代に既に八分があったことが証明されており、王次仲の創始者説は完全に否定されている[25]。
『説文解字』序文に、「漢興って草書あり」とある。この草書は章草とされており、今の草書(今草)と区別され、章草の創始者は史游[24]と『書断』にある。章草には隷書の特徴である波磔がのこるため、篆書→隷書→章草という書体の変遷になるが、漢代で草書という名称が生まれていることから、その源流は秦代や周代の篆書が行われていた時代に、篆書に対する筆記体の書として存在していたことが考えられる。現に、今使われている草書の中には篆書からくずされてできたものがあり、例えば「無」の字の草体は隷書からの連絡がない。また、漢簡の中には篆隷の省略体としての草体の実例がある。よって、草書は隷書と篆書の2つの源流から変移し形式化し定型化され、後漢の張芝が草書の創始者となるに至った[20]。
『書断』に、「行書なる者は、後漢の劉徳昇の作る所なり」とあり、続いて、「行書は即ち正書[26]の小訛」とあるように、行書は楷書を少し崩したものとしているが、今日では草書と隷書の長所をとって発生した行狎書[27]が楷書以前に行われていたとされている。行書はこの行狎書と唐代に完成された楷書をくずして生まれたものとの二通りの成立の仕方があった。のちの行書と区別される行狎書とは、相聞の書といわれる書簡のための書体で、西域出土の残紙類に見られ、『古来能書人名』にも鍾繇の書の三体の一つとして記されている[21][28][29][30][31]。 書法論書法論は、筆法・間架結構法・布置章法という書の技法についての論で、用筆を書法の中心とすることが多い。衛夫人の作とされる『筆陣図』、武帝の『観鍾繇書法十二意』、梁巘の『評書帖』、陳繹曽の『翰林要訣』などがある[2][3][32]。 『翰林要訣』では、王羲之の遺法とされる中国の伝統的執筆法・撥鐙法を説いている。撥鐙法の名義や方法には諸説あるが、『翰林要訣』の「八字訣」がその説明として一般的である。撥鐙法は現在の双鉤法に類似しており、力強い書線を書くのに適している。また、本書には執筆の際の腕の構え方(腕法)も説明しており、現在一般に通用している腕法の種類(枕腕・提腕[33]・懸腕)は本書の説に基づくものである。そして、枕腕は小字に、提腕は中字に、懸腕は大字にそれぞれ用いよとある。しかし、米芾は小字も提腕で書くべきことを説き、王澍は小字も懸腕で書けといっているように見解に相違がある[34][35][36][37]。 書学論書学論は、書全般についての考証的な研究である。書学とは書の形式である書法を集成したもので、中国では書道という言葉は使わず書学という語を用いている。書とは何かということについて中国の書論では、「人間の精神」・「自然(道)」・「骨法用筆」という3者との関係でおおむね論述されている。孫過庭の『書譜』、姜夔の『続書譜』などがある[2][3][38][39]。 前漢の揚雄の言葉に、「書は心画たり」とあり、書は人間の心をあらわすものといっている。孫過庭は『書譜』の中で、この心の奥底(魂)を「霊台」と表現し、書の表現の素晴らしさは人間の深い内面がそのまま筆の動きにあらわれることだと述べている。また、張懐瓘も『文字論』の中で、「霊台に由らざれば、必ず神気に乏し」と記している。筆には筆者の無意識の心の動きを引き出す力が備わっているように思える。高村光太郎は、「画は見飽きることもあるが、書はいくら見てゐてもあきない」といっているが、それは画よりも書の方にその人の無意識の内容がより多く表現されているためである[40]。 書品論
書品論(書評論を含む)は、書・書人を品評することで、3つの論法がある。一つは品第法(ランク付け)、一つは比況法(比喩表現)、もう一つは品性法(特性表現)であり、この3つの方法が中国の書の品評の歴史の上に流れている。比況法は唐代までで絶えたが、品第法は時代によってその方法を変化させながら後世まで行われた。しかし、品第法は書に差が設けられる理想と典型の上に成立するものであり、書が個人の創作芸術であるという見方からすると不適当で、この場合は品性法の方がよい。また、良い書はその人間の情性と徳性の優れていることが必要であり、その意味では品性法による書の品評は書を書く人に指針を与え、3つの方法の中では最も新しい意識を持つものといえる[18][48]。 六朝以来の書品は南朝梁の庾肩吾の『書品』に始まり、その方法を継承した唐の李嗣真の『書後品』、さらに張懐瓘の『書断』となって大成された。そして、宋の朱長文の『続書断』よって内容は大きく変化してきている。それは伝統的な品第法によりながらも、顔真卿を第一に置くなど新しい唐の書風を主流に立てている。 その他の書品論には、張懐瓘の『書估』・『書議』、羊欣の『古来能書人名』、王僧虔の『論書』、袁昂の『古今書評』などがある[2][3][7][49]。 品第法品第法(品等法とも)とは、書人の優劣上下をランク付けする方法である。東晋以来、書を論ずるのに人物を比較して優劣上下を定める方法が多い。このような品第法の見られるのは南朝宋の虞龢の『論書表』が初めであり、上中下の品第が行われている。その方法が斉梁のころになると九品法[42]という古来から行われている品等の立て方を用いるようになり、『書品』にそれが見られる。また、その『書品』には「天然と工夫」という言葉で言い表す品評の方法があり、これが『書品』の要旨となっている。その他に、「天性と習学」、「心と手」、「意と筆」、「神彩と形質」などの表現を使って品評している書論もある[7][18][50]。 李嗣真の『書後品』は、『書品』の9品[42]の最上(上上品)の上に逸品を設け10品とし、秦から唐にいたる82人[51]をランク付けしている。逸品には李斯と四賢[5]の5人をあげてさらに絶対的な存在とした[41][52]。
張懐瓘の『書断』中巻では、神・妙・能の3品にランク付けし、書体別に書人のランクを一覧にしている。その書人ランク一覧では延べ229人の書人(実数は120人程度)が列挙されており、最上の神品には25人(実数12人)が入り、二王だけが5書体(楷書・行書・章草・飛白・草書)でランクされている。書の品第には各体を能くして変幻自在であるという条件があり、二王が尊ばれる要因がここにある[23]。
楷書は後漢末に隷書より発生、魏晋で発達、六朝で盛行し、初唐の三大家によって大成された。その唐人の楷書は洗練された結構と明瞭な法則性によって楷書の典型を確立している。しかし、『書後品』の逸品に楷書としてランクしているのは鍾繇と王羲之で、初唐の三大家は上下品の最後にランクされている。また、『書断』の神品には鍾繇・王羲之・王献之が載り、初唐の三大家は妙品25人の最後の方である。これについて姜夔は『続書譜』で、「楷書は鍾繇を第一とし、王羲之がこれに次ぐ。二家の書はいずれも瀟洒縦横[53]であり、すこしも平正にこだわっていない。唐人の運筆は型にはまっていて科挙の習気を帯び、もはや魏晋の飄逸[54]の気が失われている。(趣意)」と述べている[55][56][57]。 比況法比況法とは、書人を「…の如し」と比喩表現して評論する方法である。南朝の書論には比喩による評論が極めて多いので、これを一類のものとして比況法と名づけている。袁昂・梁の武帝の両書評に多く見られ、比況に使われているものを分類すると次のようになる。
これらの比喩の中で、書を自然現象にたとえることが特に多い。これは中国の文字がすべて絵画的要素をもち、物象との関連があるためこのような表現法で批評される性質をもつといえる。しかし、この比況法による書評は、唐代後期の張旭から始まる革新派の書(個人の人間に主体性をおいた自由な創作的な書)では廃れてきて、宋代になるとほとんどなくなってしまう。米芾は、『海嶽名言』に、「物に比況して変わった珍しい表現をしている書論は、修辞に技巧を凝らしてかえって書法をわかりにくくしている。これでは学ぶ人の役に立たない。だから私が書を論ずるときは余計な修辞を述べないことにしている。(趣意)」と記し、南朝の人が好んだ比況法はまわりくどい言い方だとしている[49][58][59]。 品性法品性法とは、書の備えている情性の特質を捉えて、それに一種の類型を見出し、その類型を基準にして書を批評する方法である。例えば、羊欣の『古来能書人名』に、「呉の皇象は草書を能くし、世に沈着痛快と称される。」とあるが、この沈着痛快というのは皇象の書の特性を述べながらも、一種の類型として書を批評するときの一般的な評語として成立している。その他に、有意・雄渾・典雅・勁健・綺麗・飄逸・神韻・古雅・瀟洒などがあるが、いずれも原則的には平等であり、書のもつ情性の種類がいずれに属するかで書の性質の品評をすることができるとしている[58]。 収蔵と鑑賞収蔵と鑑賞は宋代からで、それに伴って題跋が多く書かれるようになり、明代中期からは経済が発展し収蔵家や賞鑑家が現れ、明末から清朝にかけて書画録が流行した。また明人は文房四宝なども鑑賞の対象にしその記録(墨譜など)を残した[60][61][62]。 題跋は、作品に対する感想などを書いたもので、重要な言説が多い。蘇軾の『東坡題跋』、黄庭堅の『山谷題跋』などがある[6][63]。 書画録は、自身の所蔵した、または過眼した書画の記録で、作品の釈文・賛・題跋・収蔵印記・装丁・自らの見解などを記している。朱存理の『珊瑚木難』、郁逢慶の『書画題跋記』、張丑の『清河書画舫』などがある[6][60]。 墨譜は、墨に刻み込まれた図象を写し取ったもの。明代は製墨技術が最高に達し巨匠が現われ、また墨が鑑賞品となって墨譜が刊行された。程君房の『程氏墨苑』、方于魯の『方氏墨譜』などがある[62][64]。 各時代の書論以下、主な書論を時代ごとに分類し、時代背景とともにその概要を記す。
漢から南北朝漢代は書が芸術であるというはっきりした自覚がもたれた時期であるが、まだ書論は未発達で、本格的な書論は二王が登場する東晋から南北朝に入ってからあらわれる。漢代の書論として、曹喜の『筆論』、崔瑗の『草書勢』、張芝の『筆心論』、蔡邕の『筆勢』という著作があったというが、現存するのは『非草書』のみである[65][66]。
『説文解字』は、後漢・許慎の字典であるが、その序文には文字・書体についての記述がある。書体が歴史の上ではっきり示されたのは本書からである[20]。
『非草書』(ひそうしょ)は、後漢・趙壱撰。現存する最も古い書論とされる。当時は草書が流行していたが、本来、早書きが目的の草書が懲りすぎて、却って時間のかかるものになったとして草書の形骸化を非難したものである。また、「草書学習に梁孔達(梁宣)・姜孟穎(姜詡)の書を手本にした」との記述があり、当時の法書が存在しない今、貴重な資料となっている[7][67][68][69]。
『四体書勢』(したいしょせい)は、西晋・衛恒撰。古文・篆書・隷書(八分・行書・楷書の3書体を含む)・草書の4書体について名筆家を列挙したあとに、各書体の起源・書法・逸話などの内容を記述したもの。草書が篆書・隷書と並んで一体をなし、重要な書体としての地位を確立していることが分かる。また、曹喜・邯鄲淳・韋誕・蔡邕の漢代の名人の書の特徴と優劣を論じている[28][38][67][70][71]。
『筆陣図』(ひつじんず)は、東晋・衛夫人撰。執筆法の要領や基本的な7種の点画の技法を説明している。また、筆墨硯紙の精能にもふれている。王羲之がこれを学んだといわれるが、王羲之または羊欣の作という説もある。『書譜』や『法書要録』などに収められて有名になった。『書譜』の中では、「『筆陣図』の執筆図は正確ではなく、また点画の説明もはっきりしない。子供の手引きぐらいの役にはなるだろう。最近これが流布しているが、もしかしたら王羲之の作かもしれない(趣意)」とある[38][72][73][74]。
『自論書』(じろんしょ)は、東晋・王羲之撰。王羲之が自らの書を張芝・鍾繇と比較し論じたもの。羲之は常に張芝と鍾繇を意識し、自分の書は彼らに対抗できるとしている[67][75]。
『古来能書人名』(こらいのうしょじんめい)1巻は、南朝宋・羊欣撰。南朝になって最初の書論で書評論として最も早いもの。勅命により王僧虔が本書1巻を筆録し、『能書人名』12巻とともに上進した[76][77][78]。
『論書表』(ろんしょひょう)1巻は、470年、南朝宋・虞龢撰。二王の書の蒐集状況の報告書であり、二王の逸話を含む。また、品第法の見られる最初の書論であり、この文の中に、「書一巻の中、好いものを巻首におき、下なるものをその次におき、中のものを最後におくとよい。人は巻首を注意して熱心に見る。中ほどになると退屈してだらだら進み、それから中品に出逢うといつまでも賞玩して巻を終えるにも気がつかない(趣意)」という。書の作品の良し悪しの上から、上中下の品第が行われている[18][76]。
『論書』(ろんしょ)は、南朝斉・王僧虔撰。30数名の書評論。本書中、「宋文帝の書は、わたくしの考えでは、王献之に劣らないと思う。その書は、天然では羊欣にまさり、功夫(工夫と同意)では羊欣に及ばない」とある[50][76][79]。
『篆隷文体』(てんれいぶんたい)は、南朝斉・蕭子良撰。43体の雑体書[19]が図示され、それぞれの体の創始者とその由来を説明している。中国の書論では六朝時代を頂点として雑体書についての論述が多数あるが、具体的な形態についての資料がほとんどなく本書は貴重である。蕭子良の撰を後代に書写したものが京都・毘沙門堂に重要文化財として現存している[80][81]。
『観鍾繇書法十二意』(かんしょうようしょほうじゅうにい)は、南朝梁・武帝撰。鍾繇の書法論[76][82]。
『書品』(しょひん、『書品論』とも)1巻は、南朝梁・庾肩吾撰。漢の張芝から梁に至る能書人(序説によると128人)を9品[42]に分けて各品ごとに評論を加えたもの。また、品評に、天然と工夫という言葉を使って述べている[7][50][83][84]。
『古今書評』(ここんしょひょう)は、523年、南朝梁・袁昂撰。武帝の命で秦・漢以来の書人25人を批評したもの。書を主として日月風雲山川草木鳥獣などの自然の物象に比喩した批評を行っている。この手法を比況法といい、例えば、「鍾繇の書は雲鵠の天に遊び、群鴻の海に戯るるが如し」などの表現がある。これは自然の物象を美の基準として書の美しさを表現したものである。『法書要録』に収められている[2][7][49][76][85]。
『論書』(ろんしょ)は、南朝梁・庾元威撰。雑体書[19]の流行について述べたもので、百種を越える雑体書を記している。それは龍書・蛇書・亀書・鶴頭書・雲書などで自然の物象を書の中に取り入れた一種の意匠文字であり、まるで比況法を具体的に意匠化したようである[7][76]。
『論書表』(ろんしょひょう)は、北魏・江式撰。文字の混乱の是正を上奏したもの[76][86]。 唐代唐代の書論は南北朝の書論を受け、二王を中心とした伝統的な書法論が確立する。特に太宗が王羲之を支持したことにより、王羲之が最高の書人という地位を確定する。太宗自身、歴代帝王中第一の能書であり、この帝によって初唐に多くの能書家・書論家が輩出した。唐代における書品の最も主要な役割をなす人は、李嗣真と張懐瓘である。張懐瓘の説は、六朝以来の伝統書道の書論を受け、『書断』における神・妙・能の品第法は六朝における九品説を一歩進めた新しい境域を開いている。しかし、初唐の末期の書は、謹厳方正を主とし表面的技巧に陥り堕落していったため、伝統書とは異なる新たな書法が求められた。そして、玄宗の頃になると、顔真卿・張旭・懐素などの書人が現れ、革新派の書論が起こってくる[6][76][87]。
『書旨述』(しょしじゅつ)は、虞世南撰。問答形式で書体の起源・王氏一族の立派さなどを語る[88][89]。
『書後品』(しょこうひん、『後書品』・『書品後』とも)1巻は、李嗣真撰。『書品』を受け、さらに秦から初唐に至る82人を品第している(書人ランク一覧を参照)。本書中、「古の学ぶ者には、みな師法があった。今の学ぶものは、ただ胸懐に任せて自然の逸気がなく、師心の独往がある。」とある。これはその当時の書風に、伝統的な書風を守らないで勝手気儘な書をかく新しい動きがあり、古人の備えていた自然の逸気がなくなっていることを述べたものである。また、四賢[5]の中でも特に王羲之を丁寧に形容し、書の聖といい、草の聖といい、飛白の仙というなど、最上の賛辞をささげている。王羲之が尊ばれる理由は、一種の偏った書体をよくするのではなく、三体・飛白みな優れているところにある。この調和した円満な書人を高く評価する書論は唐代になってから明確な考え方としてあらわれている[7][41][52][88][90]。
『九品書人論』(きゅうひんしょじんろん)は、李嗣真撰。歴代の著名な書人108家を9品に配し、各家に書体を付記している。墨池編に収められている[52]。
『書断』(しょだん、『十体書断』とも)3巻は、727年、張懐瓘撰。上・中・下の3巻で構成され、書体論・書品論・書評論を記述しており、特に書品論は最も完備したものとして定評がある。その書品では、神(最上)・妙・能の3品にランク付けし、書体別に書人のランクを一覧にしている。3巻の内容は以下のとおり[23][75][84][88][91][92]。 本書のおわりに、全文の「評」があり、神品12人から5人(四賢[5]と杜度)を取り上げて称賛している。「真書が古雅で、道が神明に合してりうのは、鍾繇が第一である。真行が妍美で、粉黛を施すことがないのは、王羲之が第一である。章草が古逸で、極致の高深なのは、杜度が第一である。章は勁骨天縦、草は変化無方なのは、張芝が第一である。諸体を精しくすることができるのは、唯ひとり王羲之だけであり、次いで王献之に至っている。」といい、中でも王羲之が諸体を精しくすることができるとして、その最上においている[93]。
『文字論』(もじろん)は、張懐瓘撰。創作の重要性を説いた革新派の論であるが、書の品第についての意見を見ることができる。その説では、「神彩が第一で、字形は第二であり、心中にあるものが先で、目に見えるものは後である。技術が優れて実際に役立つというよりも、情性のあらわれが入神の域に達して優れている。心と目が対立するのではなく、心の方に主体性があるのである。」としている[87][88][94]。
『書估』(しょこ)は、754年、張懐瓘撰。王羲之の書を基準とした書品論[84][95]。
『書議』(しょぎ)は、758年、張懐瓘撰。崔瑗、張芝、張昶、鍾繇、鍾会、韋誕、皇象、嵆康、衛瓘、衛夫人、索靖、謝安、王導、王敦、王洽、王廙、王珉、王羲之、王献之の19人を真書・行書・章草・草書の4体に分けて、それぞれに書人を序列した書品論。「1000年間、その妙を得た者は、この19人を越えず、その声聞を万里の遠くに飛ばし、栄誉は百代に擢んでている。ただ、王羲之は筆跡が遒潤で、ひとり一家の美を恣にしている。」という。しかし、王羲之にも長短があるとして、「王羲之は真行は優れているが、草では諸家に劣る。」と言っている。これは『書断』で神品の草書3人の中に王羲之を入れているのと一致しないが、本書は『書断』より30年ほど後に書かれた晩年のもので、見解に変化が見られる。また、本書には六朝における「天然と工夫」の説とほぼ同様な考え方を「天性と習学」という語を用いて表現している[88][93][96]。
『張長史十二意筆法記』(ちょうちょうしじゅうにいひっぽうき)は、顔真卿撰。張旭から受けた『観鍾繇書法十二意』の教えを記録したもの。張長史とは張旭の別称で、彼が左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(総務部長)になったことによる[88][97][98]。
『述書賦』(じゅつしょふ)2巻は、竇臮撰。周より唐に至る書人198人の書評論[99][100]。
『法書要録』(ほうしょようろく)10巻は、847年以後、張彦遠撰。張家は高官の家柄で、その家には書画の収蔵がおびただしく、彦遠は書画の鑑賞に恵まれた環境に生まれた。よってその著述も書と画との両方面にわたり、画の方面では『歴代名画記』という名著があって本書の姉妹編となっている。本書は後漢から唐におよぶ46編の書論(内4編は書名のみ)をほぼ時代順に排列して編集した書論集である。初めの自序以外はすべて他人の文章であり、その自序には、「好書者ありて余の二書を得れば、書画の事、畢(おわ)れり。」といっている。また、「書法の伝承はまず蔡邕が神人から受け、蔡琰、鍾繇、衛夫人、そして王羲之に伝わり、さらに、王僧虔、智永、虞世南、欧陽詢を経て、ついに私(張彦遠)に及んだ。」とある[3][4][8][38][101]。 本書は3種類に大別することができる。第1には二王の書論に関するもの、第2には南朝の書論に関するもの、第3には唐代の伝統派の書論に関するものである。南朝宋の虞龢と羊欣、斉の王僧虔、梁の庾肩吾の著述は本書によって初めて世に伝わったといってよい。本書10巻の内容は次のとおり[4][101][102]。
宋代宋代に書の理論を説いた人としてまず第一に欧陽脩があげられる。彼は書というものは人によって存するものであり、他人の書を模倣するのは奴書であるとし、この奴書という言葉をその理論の中でよく使った。また、欧陽脩は史学者・金石学者としても著名で、彼が金石文の題跋を書いてから蘇軾や黄庭堅がこれにならい題跋が盛んになった。 北宋末の宮廷における徽宗の書画コレクションの鑑定家となった米芾は、その龐大なコレクションを自由に利用でき、古典を徹底的に研究し、自ら蒐集もした。この宮廷コレクションの素晴らしさは『宣和書譜』などによって知ることができる。彼が書き残した書画録は今日においても正確で信頼のおけるものとされ、その鑑識眼は中国史上最高というべきものであった[103][104][105]。
『集古録跋尾』(しゅうころくばつび)10巻は、1063年、欧陽脩撰。秦から五代までの数百の金石資料を集録し、その考証結果を題跋に記したものである。これによって金石学という分野が研究されるようになった[103][106][107]。
『金石録』(きんせきろく)30巻は、趙明誠撰。前10巻には2000点に及ぶ金石文を収録し、その著年月・撰者名・諸家考証の是非を載せ、後20巻では520編におよぶ諸家考証の是非を論じている。『集古録跋尾』をさらに詳細に完全にしたもので、この2大著述によって金石学の基礎が築かれた。本書は趙明誠が1129年に48歳で急死した後、妻の李清照が紹興年間に朝廷に奉じたものである[103][108][109]。
『東観余論』(とうかんよろん)2巻は、黄伯思撰。初めに「法帖刊誤」(ほうじょうかんご)がある。これは『淳化閣帖』の標識の誤りや諸帖の真偽を史書などにより詳しく論考したもの。他に、論説・序跋・弁記など、105篇からなり、書法碑帖にわたっての考証が正確との評がある[110][111]。
『東坡題跋』(とうばだいばつ)6巻は、蘇軾撰。蘇軾の題跋を後人が蒐集したもの。内容は詩文書画にわたる論が600余篇に及び、書画に関するものが過半を占めている。杜甫の詩、韓愈の文、顔真卿の書、呉道玄の画に最高の評価を与えている。書に関しては晋から宋までの書評論と文房四宝について記されている[112][113][114][115]。
『山谷題跋』(さんこくだいばつ)は、黄庭堅撰。津逮秘書本9巻と黄嘉恵(こうかけい)校刊本4巻がある。詩文書画の題跋集であるが、書画がその大半を占め、うち蘇軾の作に跋したものが多い。黄庭堅の題跋は定評があり、創見に富む。また、この題跋から黄庭堅の学書経歴をたどることができる[116][117][118][119]。
『海嶽名言』(かいがくめいげん)1巻は、米芾撰。書名から推測して米芾の論を後人が編集したものと言われている。顔真卿の楷書を俗品に入れ、柳公権を醜怪悪礼の祖と評するなど、唐から宋に至る名家を遠慮なく非難している[61][120][121][59]。
『書史』(しょし)は、1103年以後、米芾撰。宋代の法書を鑑賞した時の記録で、法書の真贋優劣・印章・跋尾など豊富な史料となっている[122]。
『墨池編』(ぼくちへん)20巻は、1066年(序文の日付)以後、朱長文撰。書論に関する著述をひろく集載している。これには、1066年10月5日付の序文がある[87]。
『続書断』(ぞくしょだん)は、1074年(序文の日付)以後、朱長文撰。張懐瓘の『書断』の続篇であり、張懐瓘の品例を用いて主に唐宋の書人を集めて品第しており、神品3人(顔真卿・張旭・李陽冰)、妙品16人[123]、能品66人を補っている。本書は、唐宋の書人の小伝などとして参考になるものが多く、特に記録の少ない宋代の書についての歴史的な記述や小伝、書評などがある。著者の朱長文は『墨池編』の序文によると、10歳のとき父から顔真卿の書を教えられており、その尊ぶところは伝統派の人と異なっている。よって、伝統的な品第法によりながらも、事実上は新しい唐の書風を主流に立て、異なる方向の書品論となっている[49][87][124]。
『宣和書譜』(せんなしょふ)20巻は、撰者不詳。徽宗の宣和年間に宮廷の書跡を書体別に記した目録である。第1巻に帝王の書、2巻に篆書・隷書、3巻から6巻に楷書、7巻から12巻に行書、13巻から19巻に草書、20巻に分書を配列し、筆者の伝記も記されている[61][125][126]。
『続書譜』(ぞくしょふ)1巻は、姜夔撰。孫過庭の『書譜』を継承した書学論。晋魏の書法を祖述しようとするもので、顔真卿や楊凝式などの革新派の書人を評価しない[56][127]。
『書苑菁華』(しょえんせいか)20巻は、陳思撰。古人の書を論じた語を集録したもの。『法書要録』より非常に多く、160余篇に及んでいる[128][129]。
『墨経』(ぼくけい)1巻は、晁説之あるいは晁貫之撰。墨材の選択・採取・製墨法などを20項目に分けて詳細に記述している[130][131]。 元代モンゴル族が支配した元王朝は漢文化に冷淡であり、書の方面も沈滞したが、趙孟頫は元王朝に仕えて元王朝の書壇を代表する存在となり、王羲之の書を最高とした復古調の書風を主張した。そして、宋の三大家らの革新派の書は古法を荒廃に導くものと捉え、書の伝統を保持しようとする古典主義的な書論が多く作られた[6][127]。
『法書攷』(ほうしょこう、『法書考』とも)8巻は、1344年、盛熙明撰。字源・筆法・図訣・形勢など、書の全般にわたった概論の書である。書品としては、蒼頡より以降、秦から唐に至るまでの書人を上中下の3品に分けて人名を配し、人名の下に古人の品評の言葉を略記している。評語を付した品第表として便利にできている。なお、上品に39人[132]、中品に72人、下品に135人を配している[49][101][127][133]。
『翰林要訣』(かんりんようけつ)1巻は、陳繹曽撰。執筆法・血法・骨法・筋法・肉法・平法・直法・員法・方法・分布法・変法・法書の12章に分けて書法を論じている。この執筆法の章では、撥鐙法・腕法などを説いている[127][134][135][136]。 明代明初は王羲之以来の古典が尊重され、それを継承しようとする書論が大勢で、師から弟子への伝授書も多い。中期は商業が著しく繁栄し、中国第一の商工業都市となった呉中(蘇州府)ではこの繁栄を背景に詩書画結合の芸術形式が普及し、また篆刻も文人芸術として発展した。また、優れた鑑賞眼と見識をそなえ収蔵に熱意を傾ける鑑蔵家が多数現われ、集帖・書画録が刊行された。末期はまず董其昌が天真爛漫の境地を理想にかかげた革新的な傑作を数多くのこした。彼の理念は蘇軾や米芾の書論に立脚し、王鐸も董其昌の理論を実践している[137][138][64][139]。
『書法雅言』(しょほうがげん)1巻は、項穆撰。王羲之を大統として蘇軾・米芾らを斥ける伝統派の書品論。内容は、書統・古今・弁体・形質・品格・資学・規矩・常変・正奇・中和・老少・神化・心相・取捨・巧序・器用・知識の17条よりなる。その品格の条に、書品の品格を論じ、正宗(尚(たか)し)・大家(博し)・名家(専らに)・正源(謹み深く)・傍流(肆(ほしいまま)に)の5品によって書の優劣上下を判定しようとしている。具体的な人名は挙げていないが、王羲之の書が正宗とされることはその定義(「衆体兼ね能くし、天然逸出する」など)からも明らかである[49][137][140]。
『書史会要』(しょしかいよう)9巻・補遺1巻は、陶宗儀撰。1巻から8巻は、上古から元代までの書人の伝記・書風を記し、評論を加えている。元代の書人を多く含む。9巻に書法を付し、補遺には明代の書人を収録する。朱謀垔の『書史会要続編』1巻があり、明代の書家をおさめている[91][122][137]。
『古今法書苑』(ここんほうしょえん)は、王世貞撰。漢から明に至る書に関わるあらゆる文献を収載し、書について見解を述べたもの。『墨池編』・『書苑菁華』を大幅に拡充している[137][141]。
『画禅室随筆』(がぜんしつずいひつ)4巻は、董其昌撰。書論は巻1に収められ、作意に対する率意を重視し、天真爛漫の境地を理想とした。4巻の内容は次のとおり[137][142][143][144]。
『程氏墨苑』(ていしぼくえん)24巻は、1610年頃、程君房撰。程君房製墨の墨面図象(約519図)の作意内容などを載せているが、製墨法その他の技法の説明はない。最も初期の著名な墨譜である[145][146]。 清代清朝の皇帝は満洲民族でありながら漢民族の伝統文化を尊重して大規模な文化振興事業を実施した。また考証学が盛んになるなど、その資料として金石文に注目が移り、阮元と包世臣の書論により碑学が勃興した。清代で特筆すべきはこの碑学を研究する碑学派の出現である。
『佩文斎書画譜』(はいぶんさいしょがふ)100巻は、1708年、康熙帝撰。明末までの歴代の書画関係を統一整理し、出典を明記したもの。書の理論体系を立てて、書体・書法・書学・書品という4つの部門を分け、さらに書家伝・書跋・弁証・鑑蔵という項目を加えている[2][18][147][148]。
『論書賸語』(ろんしょようご)1巻は、王澍撰。執筆・運筆・結字・用墨・臨古・篆書・隷書・楷書・行書・草書・牓書・論古の12節に分けて学書法を論じている。董其昌を否定し唐碑を重視している。独創の見解が多い。江戸時代に市河米庵が本書を『清三家書論』の中に入れている[63][149][150]。
『鈍吟書要』(どんぎんしょよう)1巻は、馮班撰。主として楷法を論じ、鍾繇・王羲之・顔真卿・柳公権を宗としている。宋代では蔡襄、元代では趙孟頫を推している[63][151][152]。
『頻羅庵論書』(ひんらあんろんしょ)1巻は、梁同書撰。乾隆時代の書家として一流の撰者が心得した書に対する所論を明確にしたもので、見識の高さがうかがえ書論書として屈指のものとされる。王鐸の『擬山園帖』を取るに足らずと述べている[153][154][155]。
『評書帖』(ひょうしょじょう)1巻は、梁巘撰。執筆法、法帖・諸碑の評論、古名人より張照に至るまでの書評論である。書と時代について、「晋韻、唐法、宋意、明態」と表現している[156][157][158][159]。
『芸舟双楫』(げいしゅうそうしゅう、『安呉論書』(あんごろんしょ)とも)6巻は、包世臣撰。論文4巻・論書2巻・付録3巻からなり、『安呉論書』と称するのは、この中の論書の部分を指す。本書は阮元の説を継ぐ北碑派の理論であり、碑学派の立場をゆるぎないものにして清朝末期の書道界に大きな影響を与えた。本書中、逆入平出の用筆を説き、この理論を趙之謙が実践した。また、鄧石如の篆書・隷書・楷書を天下第一と称揚し、さらに鄭道昭の名を広く世に知らしめた[15][160][161][162][163][164]。
『広芸舟双楫』(こうげいしゅうそうしゅう)6巻は、康有為撰。『芸舟双楫』の論を強調したもので、書の源流などを論じ、碑学を尊び、帖学を攻撃している。日本で訳本(『六朝書道論』)が刊行された[165][166]。
『平碑記』(ひょうきひ)3巻は、1867年、楊守敬撰。全名を『激素飛清閣平碑記』(げきそひせいかく-)といい、周より唐に至る著名な碑230種について考証したもの[162][167]。
『平帖記』(ひょうじょうき)1巻は、1868年、楊守敬撰。全名を『激素飛清閣平帖記』(げきそひせいかく-)といい、鍾繇から王羲之までの代表的な法帖を考証したもの[162][167]。
『学書邇言』(がくしょじげん)は、楊守敬撰。碑・帖、および宋代以後の書評論[168]。
『楷法溯源』(かいほうそげん)15巻は、1877年、潘存輯・楊守敬編。楊守敬の師・潘存が選別した楷書碑の中のすぐれた文字を、楊守敬が編集したもの。はじめ『今隷篇』と名づけたが、のちにこの名に改めた[169][170][171]。 中華民国・現代民国期は長期にわたる政情の不安定と戦乱の中、国力の回復に努力する一方、文教政策にも力を注ぎ、文字資料の更なる出土を得て、その学術研究が進展した。現代の書法と清代の書法との差異は、清末以降に出土された木簡などの文字資料の研究の影響が大きい。この研究書として羅振玉・王国維などが重要な著録を残している。 清代は金石学が勃興して篆隷が盛んに書かれたが、当時の書人は木簡の隷書を知らない。碑は儀礼的なもので、結体・用筆ともに整理されて、当時の実用の字とはかなり性質が違う。これに対し木簡は日常生活の中でメモをとったり手紙を書いたりと、紙がなかった時代に紙の代用としての役割を果たしたため自然に字を書いている。しかも肉筆のため、いままさにこれを書いたというような視覚的な効果があり、碑の隷書と木簡の隷書とは感覚的にその本質が違う。そして、この木簡の率意の書は今日の書道観における書の理想に一致していると青山杉雨はいう。その書の理想とは、「生々しい視覚性と書者の人間性との兼ね合いによって生み出される鮮やかな表現である。」とし、「木簡こそまさに今日の我々の書道観を充足させてくれる資料であるということができよう。」と述べている。 1973年、馬王堆帛書の発見があったが、これも非常に自然に書いてあり、その運筆は軽妙で速度がある。西川寧は、「スイスイ書いてある。」と表現しているが、篆書を行書を書くくらいのスピードで非常に巧みに書いている。これについて今井凌雪は、「この一群の篆書から我々の今の篆書の書き方を反省できるし、また楷・行・草というより動的な書体の生まれる必然性を強く感じる。」と述べている。 清末以降に出土された文字資料は、前漢初期から200年間の肉筆の文字が20万字にも及ぶ。いままでこの200年間の文字資料が非常に少なく、特に前漢初期のものがなかった。しかも、この200年間にいろいろな書体が生まれているということが分かっていたため、ちょうどその時期の大量の文字資料の発見は考古的な価値はもちろんのこと、書法上でも非常に大きな貢献をした。その中で当時実用に書かれている書は隷書だけでなく、その略字としての章草も書かれているという事実があり、その起源が理解しにくかった草書の研究に関心を集め、以後の書体研究盛行の発端となった[12][172][173][174][175]。
『殷虚書契』(いんきょしょけい)前編8巻(1913年)・後編2巻(1916年)・続編6巻(1933年)は、羅振玉編。羅振玉所蔵の甲骨文の影印本。前編に2000余片、後編に1000余片を集編。続編には他家所蔵のものを含む[176][177]。
『殷虚書契考釈』(いんきょしょけいこうしゃく)3巻は、羅振玉撰。1914年に出版し、1927年に増訂され、3巻となった。『殷虚書契』の甲骨文を8編に分けて考釈したもの[177]。
『殷虚書契菁華』(いんきょしょけいせいか、『殷虚書契精華』とも)1巻は、1914年、羅振玉編。羅振玉所蔵の甲骨文の中で破損しやすく墨拓したことのない最大サイズの甲骨8片と小骨60片の影印本[176][177]。
『流沙墜簡』(りゅうさついかん)3巻・補遺1巻は、1914年、羅振玉・王国維共撰。羅振玉と王国維が日本に亡命中に出版した敦煌文献の研究書。敦煌文献の写真から588片の図版を撰んで各々に考釈を加えた。内容は第1巻が小学・術数・方技書、第2巻が屯戍叢編、第3巻が簡片で、その他に尼雅木簡、西域長史李柏文書などを補遺として付録している[178][179]。 具体的な論述以下、具体的な論述を部門に分けて記す。 書体について
篆書
隷書
草書
行書
楷書
雑体書
書学について
書法について
書品について
墨について
脚注
出典・参考文献
関連項目 |
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