大谷田
大谷田(おおやた)[3]は、東京都足立区の町名。住居表示実施済みで、現行行政地名は大谷田一丁目から大谷田五丁目。 地理東京都足立区東部の東渕江地域に属する。旧町名は大谷田町、佐野町、長門町、大谷田新町・二丁目、大谷田町一丁目、辰沼町。隣接する地域は、北は佐野、西は辰沼および谷中、南は東和および中川、東は葛飾区西水元。 足立区を東西に貫く東京都道318号環状七号線(環七通り)が区東部で大きく南に曲がる屈曲部の北東側に位置する。地区の東端はそのまま足立区の東端であり(最東端ではない)、南北に流れる第一級河川中川をはさんで葛飾区西水元と対峙している(葛飾区とは大谷田一丁目付近の飯塚橋で連絡できる)。 当地区の中央を農業用水路の葛西用水路が南北に縦貫しており、親水水路として近所の子供たちの遊び場となっている。ザリガニや金魚が見られることもあるが、代表的な生き物としては鯉が挙げられる。用水路上には浮木橋が架けられていたが、老朽化による強度不足から取り壊された。水路沿いに桜の並木がある。 一丁目南東部。東は中川で隔てて対岸に葛飾区、西は葛西用水路の対岸に大谷田三丁目、南を東京都道307号王子金町江戸川線で隔てて中川五丁目、北を大谷田二丁目と接する。面積は約230,000m2。 葛西用水路沿いの1番地には、もともと日立建機亀有工場跡地に建てられた、公団大谷田一丁目団地の高層住宅棟群が立ち並んでいる。1号棟から10号棟までがあり、そのどれもが異なる外観をしている。約3,000戸の住居があり、足立区公式サイトの地区人口表を見ても分かるとおり、群を抜いて大きな世帯・人口を抱えている。 また、団地住民のために団地敷地内には小さいながらも商店街を抱え、他に三井住友銀行(窓口業務は廃止。ATM業務のみ)、郵便局、診療所、保育園、住区センター、公園などがあり、ここだけでまとまったコミュニティーを形成している。 中川沿いには足立区立第十二中学校が、その裏には常善院と墓地がある。東京都道307号王子金町江戸川線沿いの温泉「明神の湯」は、近隣だけでなく遠方からも入湯客が訪れる。環七大谷田陸橋付近で葛西用水路が暗渠に潜る場所の近くには、高さ約26mの「銀河の塔」が建っている。これは陸橋を挟んだ東和4丁目とを連絡するための歩行者・自転車用の地下トンネルの出入口となっている。完成当初からしばらくの間は、夜間には光ファイバーによるライトアップがされていたが、数年ほどしてからまったく行われなくなった。塔の中ほどまで階段で登ることができ、階段の上端からは葛西用水路と桜並木が遠方まで見渡せる。 二丁目北東部。東を第一級河川中川で隔てて対岸に葛飾区、西を葛西用水路、南を大谷田一丁目、北を佐野一丁目と接する。面積は約184,000m2。 葛西用水路と公団大谷田一丁目団地とに面して、足立区立中川東小学校がある。この小学校は大谷田団地の建設と、それによる児童人口の増加が既存の足立区立中川小学校だけでは収容しきれないことなどを見越して開校した。小学校と隣接する足立区立おおやた幼保園は、厚生労働省所管の保育園と文部科学省所管の幼稚園の機能を統合し、2004年(平成16年)に足立区立大谷田幼稚園を改編して設立された。道路を隔てて東京都立足立東高等学校が隣接している。中川沿いにはボナハイツマンションが立ち並ぶ。 三丁目南部。東を大谷田一丁目、西を大谷田四丁目、南を東京都道318号環状七号線(環七通り)、北を大谷田五丁目と接する。面積は約190,000m2。 葛西用水路沿いに足立区立中川小学校がある。小学校の近くには高層マンションが建ち、大谷田団地と並んで地区内でも特に大きな建造物となっている。 四丁目南西部。東を大谷田三丁目、西を谷中三丁目、南を環七通り、北を大谷田五丁目と接する。面積は約130,000m2。 島忠家具ホームセンターに隣接して大谷田公園がある。この公園には梅の樹が植樹してあり、梅の間をめぐるように設置された木道の上を季節ごとに歩いて楽しめる。公園内の広場では不定期にバザーが開かれることがある。 五丁目北西部。東を大谷田二丁目・佐野一丁目、西を谷中五丁目、南を大谷田三・四丁目、北を佐野二丁目と接する。一部で辰沼とも接している。面積は約202,000m2。 葛西用水路に面して足立区立郷土博物館がある。館内には巨大な山車が展示してあるほか、さまざまな常設展示品や企画展示品がある。敷地内の東淵江庭園には無料で入園することができる。 地価住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、大谷田2-20-14の地点で25万5000円/m2となっている[5]。 歴史5、6千年前にまだ奥東京湾が関東地方中部まで入り込んでいた頃、大谷田地区も例外なく海面下に沈んでいた。のちに海岸線が後退して現在の沖積平野を形成してから、人々がこの地に南下してきて定住したと考えられる。大谷田村がいつから開発されたのか詳細は分かっていないが、江戸時代初期の元和年間には「大谷田」の記述が初めて記載される。この辺りの土地は利根川の自然堤防の後背湿地にあり、きわめて水利条件が悪く、初め人々は自然堤防上で暮らしていたとされる。実際、第一級河川中川の堤防沿いにある「常善院」は自然堤防上に位置するが、そこで東淵江地域最古の板碑が発見されたという。このことから、大谷田の歴史も東淵江の他の地区と同じように、自然堤防上から始まったと考えられる。 東淵江地域では普賢寺村(ふげんじ、現・東綾瀬)、蒲原村(かばらむら、現・東和)に並んで古い村であろうと推測されている。現在の大谷田地区はいくつかの小字(上、中、下、碇り耕地、八百免耕地、貝瀬耕地[6]、稗田耕地、前谷耕地、ほか)に分かれていた。現在、この地名は八百免公園(佐野一丁目5番1号)と、葛西用水親水水路に架かる「貝瀬」橋、「堤田」橋、「碇」橋に残されている。なお、大谷田が43年間所属した「東淵江」村の名称は、足立区立郷土博物館前に架かる「東淵江」橋と、博物館裏の「東淵江」庭園に残された。 かつては武蔵国東部に広がる足立郡の南部にある渕江領に属していたが、1871年(明治4年)に廃藩置県で東京府が置かれ、足立郡が埼玉県側と南北に分割されると、周辺5箇村と合併し東京府側の南足立郡東渕江村に編入された。1932年(昭和7年)の東京市制導入以降は南足立郡は改編され「足立区」となり、1960年(昭和35年)から始まった地区の再編成の中で、1976年(昭和51年)に現在の大谷田が成立した。 沿革
世帯数と人口2024年(令和6年)4月1日現在(足立区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年4月時点)[13]。なお、足立区では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能。ただし、小学校に関しては、2018年(平成30年)度から学区域または学区域に隣接する学校のみの選択になる[14]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[15]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
交通鉄道路線バス
道路・橋梁
施設
史跡関連項目
参考資料
他多数 郵便番号脚注
外部リンク
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