大炊御門 冬氏(おおいのみかど ふゆうじ)は、鎌倉時代後期の公卿。大納言・大炊御門良宗の子。官位は従一位・内大臣、左近衛大将。光福寺と号す。大炊御門家9代当主。
経歴
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『園太暦』、『花園天皇宸記』の記事に従って記述する。
従一位昇叙の背景
冬氏が左大将に任ぜられ拝賀も済ませたあとに、左大将を鷹司冬教に替える話が伝えられてきたようである。『公卿補任』にも閉門蟄居していたために従一位に任じた、とある。そして祖父信嗣と同様に大納言を辞せず従一位行大納言に留まり、後に内大臣に任ぜられたのである。
冬氏薨去後の跡目争い
『師守記』の暦応3年/興国元年(1340年)2月1日の条によると、冬氏薨去後に二人の息男である氏忠と冬信の間で跡目相続争いが発生していたとある[8]。以後も大炊御門家の跡目相続問題が『師守記』に散見され、最終的に冬信が嫡子として相続したのである。
系譜
- 父:大炊御門良宗(1260-1307)
- 母:北条朝氏の娘
- 妻:遊義門院美濃 - 若狭守藤原景俊の娘
- 妻:吉田経長の娘
- 妻:家女房 - 出自不詳
- 生母不明の子女
脚注
- ^ 若狭守
- ^ 左中将は元の如しとあるので、この年以前に左中将に任ぜられていたと思われる。
- ^ 喪に服しているという理由。
- ^ 同日、祖父大炊御門信嗣が太政大臣に任ぜられた。
- ^ 『園太暦』同日の条によると、冬氏が信嗣の猶子となっていたため喪に服した、とある。
- ^ 『花園天皇宸記』元応2年(1320年)3月2日の条によると、冬氏は花山院冬雅と息男氏忠を引き連れて左大将の拝賀に来た、とある。その際の装束が諒闇の装束であったと記されている。
- ^ 『花園天皇宸記』同日の条には人物評が記されていて興味深い。内大臣を辞してからの冬氏が酒色に耽ったため気力が無くなり病に陥った、とある。薨去前日には出家したと記されている。さしたる才能はなかったが、家業の和琴は受け継いで御遊などで奉仕したとされている。
- ^ 『師守記』暦応4年2月1日の条。
参考文献