大炊御門氏忠
大炊御門 氏忠(おおいのみかど うじただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。大炊御門、または西大路大納言入道と号す。内大臣・大炊御門冬氏の長男。官位は正二位・権大納言。 経歴以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『園太暦』、『花園天皇宸記』の記事に従って記述する。
冬氏薨去後の跡目争い『師守記』の暦応3年/興国元年(1340年)2月1日の条には、冬氏薨去後に二人の息男である氏忠と冬信の間で跡目相続争いが発生していたとある[8]。以後も大炊御門家の跡目相続問題が『師守記』に散見され、最終的に冬信が嫡子として相続したのであるが、冬信が参議となった翌年の正中2年に氏忠は権中納言を辞し、17年後に権大納言に任ぜられるまで任官されなかった。このことから早い時期に冬信が大炊御門家の跡目と見なされていたと推察できる。この庶嫡の差は、生母の出自の差によるものであると推測できる。 家門の行く末を心配する『園太暦』によると、まだ幼い宗実を残して冬信が薨去した翌年の観応2年/正平6年(1351年)12月23日、洞院公賢を氏忠が尋ねてきて家門の行く末を案じている様子と宗実に家門が安堵されている様子が記されている[9]。大炊御門家の家督を継げなかった氏忠であるが、家門の行く末を心配して行動していたのである。同時に宗実に信忠という恐らく年長の兄弟がいることも『園太暦』の記事から知ることができる[10]。 持明院統派の公卿として『花園天皇宸記』元亨3年(1323年)12月21日には、後伏見上皇と花園上皇が行幸しての西園寺実衡邸でおこなわれた神楽で氏忠が和琴を奏でている事が記されている[11]。また、『園太暦』延文元年(1356年)2月27日には、出家していた氏忠がやってきて将棋をしたとある[12]。さらに同書延文3年(1358年)9月4日に、光厳院の容態について知らせてきたとある[13]。光厳院の出家を知って自身も出家したり、光厳院の消息に詳しいことから氏忠は持明院統派の公卿としての立場を保っていたと推察できる。何度も本座を許されていることから、家嫡とはなれなかったが氏忠の立場を慮った対処と解釈できる。なお、『園太暦』の記事から氏忠の没年は延文3年(1358年)以降ということになる。 系譜
脚注
参考文献 |