女院女院(にょいん/にょういん)は、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇のことを指し、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。 宣下の対象従来、出家に伴い后妃の待遇(后宮職)は停止するものになっていた。ところが一条天皇の代、正暦2年(991年)皇太后藤原詮子落飾の際、皇太后宮職を停めると同時に、優詔あって東三条院の院号が贈られ、「女院」が出現したのである。 初期の女院号宣下は后妃の中でも特に国母となった者に限られて行われたが、承保元年(1074年)の後冷泉天皇中宮章子内親王の院号宣下(二条院)以後、所生はなくても尊貴な出自を以って院号を得る例が加わった(ただし章子内親王の場合、新たに立后する妃のために后位を空ける手段として女院にされたとする説がある)。また、皇女を准母立后による尊称皇后(天皇の配偶ではない称号のみの后)とする制度が白河天皇皇女媞子内親王(郁芳門院)を契機として確立すると、院号宣下の対象も尊称皇后にまで拡大、さらに応保元年(1161年)の暲子内親王(八条院)によって、后位を経ずに院号宣下される道も開かれた。この結果、特に内親王で女院号宣下を受ける例が大幅に増えたが、原則として宣下の対象は后妃・天皇生母・内親王のいずれかであることが前提であり、乾元元年(1302年)の永嘉門院瑞子女王(宗尊親王女、後宇多天皇後宮)や、応永14年(1407年)の北山院日野康子(足利義満室)などは非常な異例だといえる。 平安末期から鎌倉時代にかけて、内乱や両統迭立に影響され、女院号の宣下が氾濫し、一時には十数人にのぼる女院がいた。この内、皇女が所領相続の前奏として院号を与えられた例が多く見られ、内親王宣下・准后宣旨ののち、即日院号という場合もある。もっとも、厖大な荘園群を譲られた姫宮の権勢は大変なもので、富を利用して政治に睨みをきかせた八条院、宣陽門院、安嘉門院などはその代表である。 その後室町時代から江戸初期にかけて、立后・内親王宣下が共に途絶え、その結果天皇生母のみが女院となる時代が長く続いた。しかし後水尾天皇中宮徳川和子(東福門院)以後后からの女院が復活、また内親王からの女院として孝子内親王(礼成門院)のような例もあったが、正親町雅子(新待賢門院、孝明天皇生母)を最後に明治維新の時に廃止される。その後、中山慶子・柳原愛子(それぞれ明治天皇・大正天皇の生母)の待遇を巡り、女院を復活させる意見も出たものの、反対論が多く実現されなかった。 名称女院の名称(以下女院号)は、天皇や上皇の院号とは異なり生前の時点で院号定(いんごうさだめ)により決定される。最初の二人の女院に即して見ると、東三条院の称号は東三条第によって、上東門院の称号は上東門第(土御門第の別名)(大内裏の上東門は別名を「土御門」といい、そこに通じる道路は土御門大路または上東門大路と呼ばれた)によってと、いずれも里第に由来した。続く陽明門院・郁芳門院も、伝領した邸宅がそれぞれ大内裏の陽明門に通じる近衛大路(別名を陽明門大路)に面する枇杷殿、大内裏の郁芳門に通じる大炊御門大路に面する大炊殿で、それに因む門院号であった。しかし、天治元年(1124年)の待賢門院以後、女院号は御在所に関わりなく宣下されることが通例化した。当時の朝廷執行部と関係が思わしくなかった敬法門院のように実在しない門の名前(本人の出家後の法名に「門」を付加したもの)を与えられたケースもある[1]。 女院号の決定には、まず複数の候補が挙げられた中から選ばれたことが記録から判り、選定に当たっては里第名や門院名だけでなく、字が良いかどうかや不吉な先例に似ていないか、また既に存在する院号と重複しないか等、様々な角度から検討された。なお天皇・上皇の院号の場合、「後」を冠して重複する院号を使用したが、女院号は殆どが「新」を冠したのも特徴のひとつである(後京極院のみ例外)。また天皇・上皇の院号と重複する女院号は採用されなかったのに対し、逆に天皇の院号を決める際には、二条天皇のように先例である女院号の二条院との重複は考慮されなかったと見られる。 なお、新待賢門院の名だけは、南北朝時代の阿野廉子と江戸時代末期の正親町雅子の両者に重複している。これは、前者が南朝から宣下されたものであり、北朝を正統とする江戸時代の史観からは無視されていたからである。 門院号女院号の一形式として、禁裏の門を宛てる門院号がある。初例は上東門院で、元々は里第に由来する命名だが、二代の国母となった上東門院は佳例であるとされたこともあり、女院全体の大多数を占める院号となった。始めは禁門(大内裏を囲む外郭十四門)に限られたが、嘉応元年(1169年)の建春門院以降は宮門(内裏の外重を囲む外郭七門)や内門(内裏の中重を囲む内郭十二門)、内閤門、その他朝堂院・豊楽院の門名なども取り入れられた。 女院の一覧
存疑『女院号便覧類聚』『門院伝』に記載があるにもかかわらず、院号宣下の事実を確認できない例。
その多くは誤解や俗説に基づくものと考えられる。ただし、福来門院に関しては南朝の女院号とする異説もある(『紀光卿記』明和8年7月9日条)。 脚注関連項目 |