藤原隆方
藤原 隆方(ふじわら の たかかた)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家勧修寺流、備中守・藤原隆光の次男。官位は正四位上・但馬守。 経歴春宮・親仁親王の春宮蔵人や右衛門少尉を経て、寛徳2年(1045年)親仁親王の即位(後冷泉天皇)に伴って六位蔵人に任ぜられる。翌寛徳3年(1046年)2月に従五位下・周防守に叙任されるが、7月には中宮権大進を兼ねており、周防守は遙任で務めたか。 その後、中宮権大進として後冷泉天皇の中宮・章子内親王に仕えたほか、右衛門権佐や五位蔵人を務める一方、永承6年(1051年)従五位上、永承7年(1052年)正五位下、康平2年(1059年)正五位上と昇進する。康平6年(1063年)従四位下・備後守に叙任されて地方官に転じるが、治暦元年(1065年)には右中弁として京官に復し、治暦3年(1067年)興福寺供養日行事賞により従四位上に叙せられた。 後三条朝に入っても、延久元年(1069年)正四位下・権左中弁と要職の弁官を務めながら順調に昇進を続けた。しかし、延久4年12月(1073年)に正左中弁の座が空くと、本来であれば権左中弁の隆方が順送り人事で昇進すべき所、同じ正四位下の位階にあったが弁官の経験がない東宮学士・藤原実政が抜擢される。これは、後三条天皇が春宮であったころ、木津の渡しで隆方が実政に対してなかなか天皇になれない春宮に当てこすった侮辱をしたことがあり、それを覚えていた後三条天皇は隆方を越えて敢えて実政を正左中弁に任じたとされる[1]。 白河朝に入り、承保2年(1075年)実政が右大弁に昇ると、ようやく隆方も後任の左中弁に昇格する。承保4年(1077年)正月に正四位上に昇叙されるが、10月には但馬守として地方官に転じ、翌承暦2年12月(1079年)に卒去。享年65。 官歴『弁官補任』による。
系譜『尊卑分脈』による。 脚注注釈出典参考文献 |