国包 (掛川市)
地名の由来郷土雑誌によると、当地に住んでいた鍛冶の名にちなむ。 地理菊川平野の南部の牛淵川が菊川に合流する地点の南に位置する。 歴史江戸時代から1889年(明治22年)まで城東郡国包村として存在した。江戸時代には横須賀藩に属していた。石高は「元禄高帳」によると293石余であり、「天保郷帳」「旧高旧領」によると411石余であった。「遠淡海地志」によれば戸数40戸であった。1832年(天保2年)〜1847年(弘化3年)まで東海道掛川宿代助郷であった。稲作を中心に五穀のほかダイコン・からし菜・シロウリ・ウリ・トウガン・スイカ・ナス・サトウキビ・木綿などを栽培した。用水は牛淵川を利用した。鎮守は鹿島大明神で、ほかに寺社は春日大明神社・天神社・天王社・天白社・臨済宗竜泉寺があった。1868年(明治元年)に、駿府藩領(同2年静岡藩と改称)、同4年静岡県、浜松県を経て同9年再び静岡県に所属した。1889年(明治22年)千浜村の大字となる。1891年(明治24年)の戸数は、48戸、人口289人、船数2船であった。 沿革
世帯数と人口2018年(平成30年)11月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]。
交通
施設
その他日本郵便警察町内の警察の管轄区域は以下の通りである[6]。
脚注参考文献
外部リンク |