名鉄揖斐線
揖斐線(いびせん)は、岐阜県岐阜市の忠節駅から岐阜県揖斐郡大野町の黒野駅を経て岐阜県揖斐郡揖斐川町の本揖斐駅までを結んでいた名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。 2005年(平成17年)4月1日に全線が廃止された。この日廃止された名鉄の600 V電化区間で唯一の鉄道事業法適用区間であった。 運賃計算区分はC(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.25倍)。 概要宅地化が進む岐阜市西郊の通勤・通学路線であった。 かつては、途中の黒野駅から分岐して谷汲村(現揖斐川町)にある谷汲駅までを結ぶ谷汲線が延び、谷汲山華厳寺への参詣の足となっていたが、揖斐線黒野 - 本揖斐間とともに2001年(平成13年)に廃止された。 その後も車社会の進展で利用客の減少に歯止めがかからず、2004年(平成16年)に名古屋鉄道は岐阜市内線・揖斐線・美濃町線・田神線の600 V電化区間について運営撤退を正式に表明。軌道法に基づく廃止許可申請書と鉄道事業法に基づく廃止届を同年3月に提出し、2005年(平成17年)4月1日にこれら各線とともに廃止された。廃線後もしばらく本揖斐駅は残されたが、現在は撤去され、枕木等は一般に売却され、沿線近辺でよく見うけられる。 名鉄の廃止表明を受けて、地元の岐阜市などでは協議会を設置し、公設民営方式での存続の可能性について模索したが、2004年(平成16年)7月27日、細江茂光岐阜市長は利用客減少や財政難などを理由に存続断念を発表した。一時は、岡山電気軌道も支援検討を表明していた。廃線後も地元の企業を中心として、営業再開へ向けた動きも模索されていた(名鉄岐阜市内線#廃止後の動きを参照)。 旦ノ島駅 - 尻毛駅間の伊自良川橋梁は、鋼トレッスル橋脚を有する珍しいタイプの橋梁であった。 路線データ※特記なければ路線廃止時点のもの。
運行形態廃止前時点では、揖斐線のすべての列車が岐阜市内線と直通運転を行っており、15分間隔で運行されていた。またワンマン運転を実施していた。日中には半数が急行として運転されており、急行は近ノ島駅・旦ノ島駅のみを通過していたが、1967年(昭和42年)の設定当初はこのほかにも通過駅があった。急行運転開始時の停車駅は本揖斐・黒野・政田・美濃北方・北方千歳町・尻毛・忠節と、岐阜市内線の西野町・千手堂・徹明町・新岐阜駅前・岐阜駅前であった。 車両は、一部岐阜市内線と直通運転のため、路面電車タイプの軌道線車両が使用されていたが、名古屋本線・瀬戸線の架線電圧直流600 Vから1,500 Vへの昇圧によって余剰となったモ160形、モ700形・モ750形、ク2320形などの大正末期から昭和初期にかけて製造された木造や半鋼製鉄道線車両が走っていた。1998年(平成10年)までは、同線と岐阜市内線はモ510形やモ770形の一部の直通運転を除いて独立した運転をしており、忠節駅で乗り換えが必要であった。これは鉄道線車両の車体の幅や長さが一回り大きいうえに、市内線での道路上での乗り降りに必要な折りたたみ式ステップの改造がされていなかったためで、すべて忠節駅発着の普通列車として運転されていた。しかし、同年から増備されたモ780形により、鉄道線車両は廃車となり、すべての列車が岐阜市内線からの直通運転する路面電車形となった。なお、モ510形・モ770形・モ780形は車両の幅が狭く、同線内の駅に停車するとホームと車両間に隙間が空いてしまう[注釈 1]ため、同線内では乗車ステップを格納せずに運転していた。 歴史岐北軽便鉄道[3]により開業し、美濃電気軌道を経て名古屋鉄道の路線となった。岐阜市内線と繋がるのは太平洋戦争後のことである。
運行会社・路線名称の変遷
駅一覧
所要時間・運賃(2005年、路線廃止前時点)
運賃は、揖斐線が運賃計算キロ、岐阜市内線が均一制で設定されていたので、路線の起終点となる忠節駅を越える場合は両方を合算していた。また、黒野駅などの有人駅では美濃町線への連絡乗車券も販売されており、梅林経由と新岐阜駅前・新岐阜経由が設定されていた。 車両車両数の変遷
脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |
Portal di Ensiklopedia Dunia