パッション (1982年の映画)
『パッション』(Passion、「情熱」あるいは「受難」の意)は、1981年製作、1982年公開の、ジャン=リュック・ゴダール監督によるフランス・スイス合作の長篇劇映画である。 概要1979年、長篇劇映画『勝手に逃げろ/人生』で商業映画に復帰したゴダールの復帰第2作である。前作に引き続き、フランスのスター女優イザベル・ユペールとドイツのスター女優ハンナ・シグラを迎え、ポーランド派・アンジェイ・ワイダ監督の『大理石の男』(1977年)に主演したイェジー・ラジヴィオヴィッチを「映画監督」役に起用した。 本作は、本作と同タイトルのビデオ映画『パッション』をスイスで撮影する、というもので、映画内映画では、レンブラント・ファン・レイン、ウジェーヌ・ドラクロワ、フランシスコ・デ・ゴヤらの絵画を実際のセット、コスチューム、人物で再現しようという挑戦が行われている[1]。 映画内映画『パッション』が活人画映画の対象とする絵画は、レンブラントの『夜警』、ゴヤの『裸のマハ』、同『5月3日の銃殺』、同『カルロス4世の家族』、ドミニク・アングルの『小浴女』、ドラクロワ『十字軍のコンスタンティノープル入場』、同『天使と闘うヤコブ』、アントワーヌ・ヴァトーの『シテール島への船出』である。⇒#ギャラリー 『勝手に逃げろ/人生』にひきつづきゴダールの初期映画群を支えた撮影監督・ラウール・クタールが映画内でも撮影監督を演じている。照明技師役のジャン=フランソワ・ステヴナンは、本業はフランソワ・トリュフォーの共同作業者として知られる映画監督であり、ハンガリー出身のプロデューサーを演じるラズロ・サボはゴダールの長篇第2作『小さな兵隊』以来のゴダール組の常連俳優で、『恋のモンマルトル』(1975年)等の監督としても知られる。アニエス・バンファルヴィはハンガリーの女優である。 1982年5月14日から同26日に開催された第35回カンヌ国際映画祭でコンペティション作品として正式出品され、撮影監督のクタールが技術大賞を獲得した。1983年のセザール賞で、最優秀作品賞、最優秀監督賞(ゴダール)、最優秀撮影賞(クタール)にノミネートされたが、賞は逃した。 日本では1983年(昭和58年)11月19日、東京・六本木に同日開場した映画館シネ・ヴィヴァン六本木のオープニング作品として、フランス映画社の配給により公開された。19年を経て、ザジフィルムズが上映権を獲得、2002年(平成14年)7月27日から再映された。 メイキングとして撮影、ゴダールが監督・編集したビデオ映画『「パッション」のためのシナリオ』がのちに発表された。 ギャラリースタッフ
キャスト
ストーリー1981年、スイスの小村にあるスタジオで、ビデオ映画を撮影するチームがいる。ポーランド人の監督ジェルジー(イェジー・ラジヴィオヴィッチ)、ハンガリー出身のプロデューサー・ラズロ(ラズロ・サボ)、スイス人の助監督パトリック(パトリック・ボネル)、フランス人の撮影監督クタールたちが、撮ろうとしている映画のタイトルは『パッション』、「情熱」という意味と「受難」という意味をもつ。レンブラント、ドラクロワ、ゴヤ等の名画を俳優で再現することがそのテーマである。 撮影はうまくいっていない。クランクイン以来4か月が経過しているが、光がなっていないと監督がダメ出しをつづけているのだ。予算は膨大に超過し、中止のしようもない状態に陥っていた。 同年12月13日、ポーランドで戒厳令が発令される。その直後の冬の日、イザベル(イザベル・ユペール)は工場から解雇を言い渡される。工場主ミシェル・ブーラール(ミシェル・ピコリ)は違約金を払わず、労働者による抗議集会が準備される。イザベルは撮影隊に集会への参加を訴えるが、独立自主管理労働組合「連帯」の国からきたはずのジェルジーは冷淡だ。撮影チームの宿泊先のホテルの経営者ハンナ(ハンナ・シグラ)は、ジェルジーとイザベルの仲を怪しみ、ハンナの夫の工場主ミシェルは、ハンナとジェルジーの仲を怪しんでいる。イザベルの家で行われた抗議集会は不発に終わる。 ついに撮影は崩壊、プロデューサーのラズロはジェルジーにアメリカへ行けと迫る。ミシェルは工場を閉鎖、廃業する。ハンナも、イザベルも、ジェルジーも雪道を去っていく。 註関連項目外部リンク |
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