フランシスコ・デ・ゴヤ
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(スペイン語: Francisco José de Goya y Lucientes, 1746年3月30日 - 1828年4月16日)は、スペインの画家。ディエゴ・ベラスケス同様、宮廷画家として重きをなし、スペイン最大の画家と謳われる。西洋ではゴヤは最後のオールド・マスターと呼ばれている[2]。 生涯1746年3月30日、スペイン北東部サラゴサ近郊のフエンデトードスで鍍金師の次男として生まれた[3]。 14歳の時から画家ホセ・ルサン・イ・マルティネスに師事して絵画の修行をする[4]。この間、後に義兄となる兄弟子フランシスコ・バイユー、その弟ラモーン・バイユーに出会う。1764年と1766年の2回、サン・フェルナンド王立アカデミーの奨学生試験に応募したが落選している[3]。 19歳のときにマドリードに移った後、自腹で教皇領のローマを目指したが、後援者が見つからず、ローマに着いたときには健康が悪化したうえ破産に近い状態だった[4]。イタリア滞在中にルネサンスの傑作に出会い、フレスコ画の技法を学んだ。パレルモ・アカデミーから奨励賞を受け、1771年に帰国した。1772年にサラゴザのピラール聖母教会から大聖堂の天井装飾の注文も受け、そのほかのことも任された[5]。1773年にバイユーの妹ホセーファ・バイユー(1812年6月没)と結婚した[3]。その後、バイユーの手引きでマドリードへ出て、1775年までに1子が生まれている[4]。 1775年から1792年まで、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵描きの仕事に携わる[3]。 1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年4月には新王カルロス4世の宮廷画家となる[3]。 このように、40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たが、1792年、不治の病に侵され聴力を失う[3]。代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』[注釈 1][5]、『1808年5月3日、マドリード』[注釈 2][5]、『巨人』などはいずれも聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。 1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻し、翌1808年7月にはナポレオンの兄ジョゼフをホセ1世としてスペイン王位につけた。事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけてスペイン独立戦争のさなかにあった。 こうした動乱の時期に描かれたのが『1808年5月3日、マドリード』(1814年)、『巨人』などの作品群である。1810年には版画集『戦争の惨禍』に着手し、1820年に完成した[3]。1815年、すでに69歳に達していたゴヤは、40歳以上も年下のレオカディア・ワイスというドイツ系の家政婦と同棲していた。 1819年2月、マドリード郊外に「聾の家」と通称される別荘を購入した[3]。1820年から1823年にかけて、この「聾の家」のサロンや食堂を飾るために描かれた14枚の壁画群が、今日「黒い絵」と通称されるものである[3]。その後、1823年9月に「聾の家」を孫に与えた[3]。 当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年5月、78歳の時にフランスに亡命し、ボルドーに居を構えた[6]。同年6月から9月にかけてパリに滞在した[3]。1826年5月から6月にかけてにマドリードに一時帰国し、宮廷画家の辞職を認められた後[3]、1828年4月16日に亡命先のボルドーにおいて82年の波乱に満ちた生涯を閉じた[4]。 死後現在はマドリードのプリンシペ・ピオ駅にほど近いサン・アントーニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂、通称:ゴヤのパンテオン (Panteón de Goya) に眠っている。この聖堂の天井に描かれたフレスコ画、『聖アントニオの奇跡』もゴヤの作品である。なお、遺骸の頭蓋骨は失われている。亡命先の墓地に埋葬されている期間に盗掘に遭ったためだが、その犯人も目的も、その後の頭蓋骨の所在についても一切が不明のままである。 日本にあるゴヤの油彩画としては、東京富士美術館の『ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル[注釈 3]』、三重県立美術館の『アルベルト・フォラステールの肖像[注釈 4]』が挙げられる。版画となるともう少し多くなり、国立西洋美術館、町田市立国際版画美術館、神奈川県立近代美術館、姫路市立美術館、長崎県美術館などが所蔵し、企画展などの際に展示される。また、大塚国際美術館では、「聾者の家」を当時そのままの配置で再現している。 『巨人』の作者について2009年1月、プラド美術館は、従来代表作とされていた『巨人』はゴヤの作ではないと結論する報告書を公表した。この作品は1931年に同美術館に寄贈されたもので、当時はゴヤについての研究が進展していなかったため、疑いなく真筆とされていた。しかし、ゴヤの作にしては、逃げまどう群衆や動物の筆致が粗い点などが指摘され、プラド美術館が様式、伝来等を総合的に検討した結果、本人ではなくその追随者の作であると結論付けられた。決め手の1つは画面左下に「AJ」というサインが発見されたことで、同じイニシャルを持つ弟子、アセンシオ・フリアが作者と見られている[7]。もっとも、フリアは自身の作品にイニシャルではなくJuliaと記入しているため、これはフリアの作品ではないという反論もある。 代表作
主な日本語文献
主な作品集
関連作品
脚注注釈
出典
外部リンク
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