活人画活人画(仏: Tableau vivant)とは、適切な衣装を身につけた役者や芸術家の集団が、注意深くポーズをとって絵画のような情景を作ること。しばしば、演劇的な照明を伴う。展示している間は、演者はしゃべったり動いたりしない。したがって、この手法は絵画や写真といった芸術手法と結合し、現代の写真家を惹きつけた。タブロー・ヴィヴァンとも。活人画が最も人気を呼んだのは、19世紀のヌードの活人画であった。 起源その起源は、Golden Mass のような中世の典礼劇とされている。そのような典礼劇は、王室の結婚式、戴冠式、都市への勝利の入場などの祝い事で行われた。現代の銅像や石像を真似るストリートパフォーマンスにも似ているが、多人数で行われ、行列に沿って精巧な移動式舞台に載っていた[1]。 舞台ラジオ、映画、テレビができる前、活人画は娯楽形態の1つであった。印刷における色の再現が可能となる以前、活人画は舞台上で絵画を再現するのにも使われた。素人が個人的に行うこともあったが、プロが一連の活人画を舞台上で演じることもあった。この場合、演劇につきものの様々な細かいことを排除してストーリーだけを伝えるという効果があった。このような形式に慣れることで、後のヴィクトリア朝時代やエドワード7世時代の幻灯機のショーやコミック・ストリップ(原型は1890年代に登場)が理解される下地となった。 イギリスでの舞台検閲は、舞台上で女優が裸(あるいは上半身だけ裸)になって動くことを厳しく禁じていた。このため、活人画はそのような場面を示すのにも使われた。19世紀、そのような舞台としてロンドンの The Hall of Rome のような場所で、"Nymphs Bathing"(ニンフの入浴)や "Diana the Huntress"(女猟師ダイアナ)といった演目が見られた。20世紀になると、ロンドンのウィンドミル劇場(1932年-1964年)では、官能的娯楽として活人画が演じられた。移動興行も行われていた。この種のショーは1970年代にはほぼ見られなくなった。 写真活人画の手法は、初期の芸術写真の手法として使われた。例えば、1840年代の David Octavius Hill や Robert Adamson の作品である。他にも Oscar Gustave Rejlander の Two Ways of Life(1857年)、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンの 'Xie'、Alexandra Kitchin の St. George and the Dragon(1875年)といった作品がある。近年では、Justine Kurland、Roger Ballen、Jan Saudek、Sandy Skoglund、Gregory Crewdson、Bernard Faucon といった芸術写真家や芸術家が、活人画の手法を使っている。 なお、初期の写真撮影には露光のための時間がかかり、その間ポーズを維持する必要があったという点も関係していると思われる。 映画とテレビ
日本の活人画1906年に三越呉服店が発行した「
という内容のコマがある。女学生の前で活人画を披露する女子が描かれている。[3] 1947年(昭和22年)1月15日、新宿の帝都座で「名画アルバム」の名で活人画(ビーナス誕生)が披露された[4][5]。企画した東京宝塚劇場(のちの東宝)の社長秦豊吉は、三菱商事の商社マンとしてドイツに赴任中だった1920年代にベルリンで活人画「生きた大理石像」を観たことがあり、それを参考に、名画になぞらえて額縁の中で半裸の女性にポーズをとらせた[4]。日本初のヌードショー、ストリップと言われ、通称「額縁ショー」と呼ばれた[4]。名画は国内外から選ばれ、岡田三郎助の『海辺裸婦』が最も成功した[4]。演出には東郷青児も協力した[4]。ヌードを見せる時間は長くても30秒程度だったが、定員の5倍あまりの2000人が毎回つめかける盛況となった[4]。 関連項目脚注
外部リンク
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