立田町(たつだちょう)は、愛知県愛西市にある地名。字が19ある。
地理
旧立田村域南西部に位置する。東は山路町・森川町、西は長良川を挟み三重県桑名市長島町・海津市海津町、南は福原新田町・地続きで三重県桑名市長島町、北は小茂井町に接する。町域内中央に木曽川が流れ、町域を二分している。これは明治時代に行われた木曽三川分流工事に伴うもので、昭和時代に入り立田大橋が架橋されるまで渡し船による移動を余儀なくされていた。
字一覧
(配列は五十音順・読みはYahoo!地図による[WEB 5])
- 杁先(いりさき)
- 北郷附(きたごうづけ)
- ギロ(ぎろ)
- 鯉ケ平(こいがひら)
- 郷附(ごうづけ)
- 郷前(ごうまえ)
- 三番割(さんばんわり)
- 十六石山(じゅうろっこくやま)
- 船頭平(せんどひら)
- 堤外三番割(ていがいさんばんわり)
- 富安(とみやす)
- 堤外(ていがい)
- 中田(なかた)
- 東田面(ひがしだめん)
- 平瀬(ひらせ)
- 福原(ふくはら)
- 前田面(まえだめん)
- 松田(まつだ)
- 南鍋田(みなみなべた)
河川
歴史
地名の由来
旧村名の由来
- 小家(こいえ) - 『尾張國地名考』によると、湿田の江や用水に生息する鯉に由来する「鯉江」が転じたものという。
- 鯉ケ平(こいがひら) - 『尾張國地名考』によると、「鯉江が平」の略であるという。
- 和田(わだ) - 『尾張國地名考』によると、川・堤防の曲がり目を指す「廻所」(わど)に由来するという。
- 又右衛門新田(またうえもんしんでん) - 小茂井村の百姓又右衛門が元禄8年に開墾したことに由来する。
- 船頭平(せんどうひら) - 船頭の小屋があったことに由来する。
- 福原(ふくはら) - 「鈴鹿おろし・伊吹おろしが吹く原」という意味であり、「吹」の字を避けて「福原」とした。
沿革
- 1159年(平治元年)頃[7] - 源義朝が平治の乱において京から野間へ敗走する際に上立田村に立ち寄ったとの伝説が残る。
- 天正年間 - 織田信長が長島攻めの際に上立田村を全村焼打ちにしたとの伝説が残る。また、『信長公記』天正2年長島攻めの項には船頭平村の「こだみ崎川口舟を引き付け」との記述がある。なお、「こだみ」は字として1964年(昭和39年)の区画整理まで残っていた。
- 江戸時代 - 尾張国海西郡の尾張藩領鵜多須代官所支配の村として、小家村・富安村・鯉ケ平村・和田村・上立田村・下立田村・松田村・船頭平村・又右衛門新田村・福原新田が所在した。また、周辺には伊勢国領・大福原も存在した。
- 1624年(寛永元年) - 小家村・鯉ケ平村・松田村・船頭平村が開墾される。
- 1635年(寛永12年) - 福原新田が、地主の加藤家によって輪中堤が築かれて再開発された。
- 1695年(元禄8年) - 小茂井村の百姓又右衛門により又右衛門新田村が開墾される。
- 1873年(明治6年) - 福原新田の加藤家内に学校が置かれる。
- 1876年(明治9年) - 伊勢暴動が富安村に波及。福原新田では学校が焼かれる。
- 1878年(明治11年) - 愛知県海西郡小家村・富安村・鯉ケ平村・和田村・上立田村・下立田村・松田村・船頭平村・又右衛門新田村が合併し、立田村が成立する。村役場は富安に設置された。また、学校が富安と和田に設置された。
- 1880年(明治13年)5月10日 - 三重県桑名郡福原新田(旧伊勢国・大福原)が愛知県海西郡に編入される。既存の海西郡福原新田と一体化したとみられる。
- 1889年(明治22年) - 立和村の大字立田・大字福原新田となる。
- 1897年(明治30年) - 木曽三川分流工事に伴い、和田・上立田・下立田・又右衛門新田の全域と小家・富安・松田・船頭平の各一部が水没、福原新田は新木曽川の対岸となる。立ち退いた住民は神野新田(豊橋市)・安城ケ原(安城市)・名古屋市などに移住することとなる。
- 1906年(明治39年) - 立田村の大字立田・大字福原新田となる。
- 1935年(昭和10年) - 長島との間の木曽川堤防が締め切られ、福原新田の干拓地が増加した(後の福原新田町)。
- 1984年(昭和59年) - 立田大橋が完成。木曽川改修以来分断されていた本村と福原新田が陸上交通で結ばれた。
- 2005年(平成17年)4月1日 - 愛西市立田町となる。
世帯数と人口
2019年(令和元年)5月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 2]。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 9]。
交通
バス
かつては愛西市巡回バスの停留所があったが、現在は廃止されている。
道路
施設
その他
日本郵便
脚注
WEB
文献・注釈
- ^ 仔細は不明だが、伝説の内容から平治元年から翌2年の間の出来事であると思われる。
参考文献
関連項目