YANAGIMAN(ヤナギマン、1960年11月9日 - )は、鹿児島県鹿児島市の音楽プロデューサー、作曲家、編曲家、ベーシスト。ケツメイシ、FUNKY MONKEY BABYSを始めとする様々なアーティストのプロデュース、作曲、作詞、編曲を手がけている。マサチューセッツ州ボストン・バークリー音楽大学卒業。『1933ウクレレオールスターズ』バンマス。燦々ぬまづ大使(静岡県沼津市PR大使)。長浜ブランドアンバサダー(滋賀県長浜市PR大使)[1]。奄美観光大使(鹿児島県奄美大島PR大使)。JOIN大使(一般社団法人 移住交流推進機構PR大使)。洗足学園音楽大学客員教授、松実高等学園顧問を務めている[2]。血液型はB型。1995年より東京在住。
概要
鹿児島県奄美大島出身。鹿児島県立鶴丸高等学校卒業。熊本大学薬学部中退。幼少期より音楽が身近な環境であった。音楽性の原点はサイモン&ガーファンクルで、大学時代はアース・ウィンド・アンド・ファイアーに魅了された。その後ジャズミュージシャンとして東京で音楽活動。
1989年(平成元年)マサチューセッツ州ボストンのバークリー音楽大学へ入学。帰国後、福岡に居住。テレビでレポーターなどを務める。デイト・オブ・バースのレコーディングとツアーに参加。
1995年(平成7年)、35歳時の『サウンド&レコーディング・マガジン』主催コンテスト優勝を期に活動拠点を東京に移す。アーティストからの紹介で仕事の幅が広がり、Soul loversのプロデュース、アレンジを始める。その後、Soul loversのMahyaの紹介でケツメイシと知り合い、作品を作り始める。元々の得意分野は普通のポップス系。レゲエやヒップホップの新ジャンルを開拓すべく勉強を重ね、それがケツメイシのヒップホップ系の楽曲でのヒットにつながったという[3]。
国内ではケツメイシ、FUNKY MONKEY BABYS、CHEMISTRY、Crystal Kay、倖田來未、中島美嘉、加藤ミリヤ、エレファントカシマシ、BoA、Def Tech、平原綾香など様々なアーティストへの楽曲提供や編曲、プロデュースを行う。また、ビルボードシーンで活躍中のUsherのリミックスや、香港の歌手IVANWANG、HotCha、Ella Koonなど国外のアーティストへの楽曲提供も行う。
2005年(平成17年)、ケツメイシ『ケツノポリス4』でダブルミリオン[4]、及び、レコード大賞ベストアルバム賞を受賞[5]。
2007年(平成19年)、BoA『LOVE LETTER』でレコード大賞金賞を受賞[6]。
2011年(平成23年)、FUNKY MONKEY BABYS『それでも信じてる』でレコード大賞優秀作品賞を受賞[7]。
2013年(平成25年)までに関わってきた作品の累積出荷枚数が2,000万枚以上に達している[8]。
2018年(平成30年)ウクレレ友達のサザンオールスターズ・関口和之が『1933ウクレレオールスターズ』を結成。YANAGIMANはバンマスを務める。関口を含める高木ブー、野村義男、分山貴美子、はたけやま裕、荻野目洋子で構成される[9]。
2019年(令和元年)5月3日、カンボジアの孤児院への寄付を熱望するYANAGIMANは、その趣旨に賛同してくれた島谷ひとみに新譜を書き下ろした。2万人強のパシフィコ横浜で『サイクル』を披露する[10]。
2020年(令和2年)5月、新型コロナウィルス騒動を受けてNHK BS1スペシャル「外出自粛の夜に〜ウクレレでリレー音楽会」に出演。自宅からサザンオールスターズの関口和之の紹介バトンを受けてウクレレとコントラバスを披露。その後、ザ・ドリフターズの高木ブー、荻野目洋子へとバトンがつながれた[11]。
2021年(令和3年)7月、島谷ひとみとMINMIが初コラボしたスペシャルユニットに“ジャパニーズレゲエ”の楽曲を提供した[12]。
2022年(令和4年)4月1日、洗足学園音楽大学客員教授に就任[13]。
主な代表作
- FUNKY MONKEY BABYS
- 『それでも信じてる』『ありがとう』[14]
- BoA
- 『LOVE LETTER』『make a secret』『DO THE MOTION』
- ケツメイシ
- 『バラード』『さくら』『トモダチ』『夏の思い出』『涙』[15]
- 中島美嘉
- 『素直なまま』
- 倖田來未
- 『Lies』
- CHEMISTRY
- 『FLOATIN'』『愛しすぎて』『STILL ECHO』
- ゴスペラーズ
- 『1,2,3 for 5』『くれないの街』『見つめられない』『愛のシューティング・スター』[16]
- エレファントカシマシ
- 『俺たちの明日』『大地のシンフォニー』[17]『starting over』『まぬけなJohnny』『FLYER』[18][19]
- mihimaru GT
- 『One Time』『オメデトウ』
- 加藤ミリヤ
- 『勇者たち』
- NEWS
- 『なんとかなるさ』
- Crystal Kay
- 『Motherland』
- Skoop On Somebody
- 『遠くても 遠くても』『Sing a Song』
- Tiara
- 『Love is… with KG』『さよならをキミに...feat.Spontania』『キミがおしえてくれた事feat.SEAMO』『ヒカリ』[20]
- MACK JACK
- 『アンセム』[21]
略歴
人物
交友関係
音楽性
- 生まれ故郷の奄美大島や、母の実家がある石垣島を音楽性の原点であると語っている[22]。
- 父は警察官で鹿児島県屋久島警察署の署長も務めた。厳格な性格で、また柔道2段・剣道2段の持ち主でもあったので、悪さをすると鉄拳が飛んできた。父への反発や、その裏返しの父から愛されたいという感情が今でも音楽性に影響をしているという[22]。
- 父母共に三線(さんしん)の先生をしていた。家族でカチャーシーに合わせて踊るなど、音楽が常に身近にあった。喜納昌吉の『ハイサイおじさん』『花〜すべての人の心に花を〜』など沖縄音楽には影響を受けている[22]。
- 8歳のときに森永製菓のテレビCMの『大きいことはいいことだ!!』という世界に強いインパクトを受け、また憧れた。この忘れがたい衝撃が、心掛けている世界観『音楽は人をつなげる。人は音楽をつなげる』に繋がっている[22]。
- 10歳のときに初めてサイモン&ガーファンクルのレコードを買い、小学4年生のときにはお年玉で買ったカセットレコーダーを2台で多重録音をするなどが、音楽作りの原点となった[22]。
- 中学生に入ってアコースティックギター、ベース演奏を始め、井上陽水の曲のコピー演奏などをしていた[22]。
- 大学生の頃、リズムが激しい音楽が流行しており、ディスコミュージック[要曖昧さ回避]やJAZZなど黒人音楽が好きになる[23]。
- コンピューター好きだったこともあり、いち早くデジタルレコーディングを取り入れた。デジタルへ移行の速さがヒットを生み出す要因だったと対談で話す。特に1990年後半から、スクラッチが出来るCDJ(DJ向けデジタル再生機器)が多く出回り、また、オルガンのように大きくて重たい楽器を二人がかりで運ぶ時代から、軽いポリフォニックシンセサイザーが主流になり、より簡単に録音可能になったことが音楽制作の転機であると語る[24]。
- 1998年頃から宇多田ヒカルブームで一気に日本の音楽シーンが、8ビートのバンドミュージックからデジタルの音楽に変わる[独自研究?]。16ビートの音楽が増えてきて、4つ打ちのダンスミュージックがどんどん出てきたことでYANAGIMANが好きだった黒人音楽、R&B の流行りに乗れた[24]。
- 初めて上京して出会ったアーティストがサザンオールスターズの関口和之。関口からサザンのもつ「ノンジャンルで遊び心が溢れるエンターテインメント」を学んだ。その感覚をケツメイシにも感じたという。「エロ面白さ」「美しさ」全てが混然一体となった音楽を意識した[24]。
- 制作活動でインスパイアされた曲BEST10を聞かれて「Earth, Wind & Fire」「グレイテスト・ショーマン」「パイレーツ・オブ・カリビアン」などあげる。番外として「効果音集・自然音」をあげる。昔の名曲にはイントロや印象的なところに入れていたと話す[26]。
手掛けた主な関連アーティスト(プロデュース・作曲・編曲)
あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行
ら行
わ行
関口和之 & 1933ウクレレオールスターズ
サザンオールスターズのメンバーで、ベース担当の関口和之が「ウクレレでオーケストラのようなバンドを作りたい」という思いから、2018年にYANAGIMANをバンマスとして招集し結成。高木ブーや荻野目洋子、野村義男、はたけやま裕、分山貴美子などウクレレ好きミュージシャンをメンバーに引き連れ、2022年8月にアルバム『FREE-UKES』が発売。タイトルは、「FREE=自由」と「UKES=ウクレレ」の複数形(アメリカでの呼称)によって組み合わされている[51]。
演奏
出演
テレビ
ラジオ
脚注
外部リンク