エイジアエンジニア
エイジアエンジニア (ASIAENGINEER) は、日本の4人組ヒップホップグループである。 1998年結成。2005年rhythm zoneよりメジャーデビュー。グループ名には「アジアに進出したい!」という勢いと「楽しいことを創りだす職人でいたい!」という2つの気持ちが込められている。 2020年1月1日、活動再開を宣言。 メンバー
沿革1998年結成。ZRO、KZが発足。最初は当時のラップグループに多かった四文字熟語のラップ名にするか悩んだ。「不動猛者(ふどうもさ)」というグループ名か、当時大工をしていたKZにちなみ「エイジアエンジニア」とするかで、エイジアエンジニアになった。 当時のリーダーはZRO。三代続く医者の家系に生まれ、名付け親である祖父の佐武郎より医者になる事を期待されるが、数学が全く理解出来ず、虎の穴的に高校3年間を木更津の学生寮で自身の学力の可能性の限界を実感しながら過ごす。3つ上でイギリスのオックスフォードに留学経験もある兄の影響もありUKロックなどを愛聴。高校生活の中で変わり映えのしない毎日の心境を日記に綴ることが原点でその後、ラッパーに。 小中の音楽の成績は常に「もっと頑張りましょう」だったZRO。大学入学時にはKZがZROの地元である江戸川区の瑞江駅に移り住み、近所のクリーニング屋でアルバイトを始めたことで、大学まで片道3時間の道のりをサボり、足繁くKZのバイト先に通う。そこで毎日のようににラップを書き始めた。大工を辞めたKZが働いていたクリーニング屋は、ラルフローレンや、トミーフィルフィガーなど当時のBボーイファッションのパチモノを扱う一風変わった店だったが、当時の江戸川区でも珍しくクリーニング屋なのにレジで煙草が吸えるなど、極めてヒップホップ感漂う店だった。毎朝やってくるZROと世間話から始まり、それに飽きてくると不思議とラップを書き始める。その頃のリリックの内容は、当時最前線で活躍していた、ブッダ・ブランド、キングギドラ、ライムスター、マイクロフォン・ペイジャーなどの影響が大きい。当時のラッパーらしく、最初に書いた曲は歌謡曲に盾をつくものだった。 KZは昼間クリーニング屋で働き、終わると当時のKZの彼女が自ら働く瑞江のカラオケチェーン店で、社員割引を使い飲み食いやカラオケをさせてくれた。しかしながら、カラオケのレパートリーにも飽きてきくると、適当な曲をバックトラック代わりにかけ、オリジナルのラップを乗せてみるというのがデモ作りの原点となる。デモ曲が少しずつ出来始めた頃、たまたま駅前で出会った女の子が家にターンテーブルを持っているDJということで、その子の家で曲をレコーディングさせてもらう事になる。ターンテーブルをつないだラジカセで一発録りを行う。そのテープをダビングし、同じ中学校の同級生であったYOPPY、一個下の後輩JINSEIに聞かせたところ、「一緒にやりたい」となり、その場で4人組のエイジアエンジニアが誕生した。1998年4月、20歳前後のことである。 4人でのデモ制作を開始し、大学の同級生を通じてデモテープを配り始めるとすぐさまライブのオファーを受け、記念すべき初ライブはいきなり200人規模のクラブ、六本木R?HALLで行う。後に、shibuyaNUTS、club bar FAMILY、Club Asia、VUENOS、SIMOON、六本木CORE、二子玉川pink noiseなどでライブを行うようになる。 ライブと並行して勢力的にデモ制作を行っていたとある時、雑誌に掲載されていたタワーレコードのオーディションに参加してみることに。優勝すると横浜のLOGOSよりメジャーデビューのチャンスを貰えるというものだった。2,000本集まったデモテープのうち45組だけが出場できるというもので、これが始めて雑誌にエイジアエンジニアの名前が載るきっかけとなる。オーディションイベントの司会は当時「こっちおいで」のスマッシュヒットで勢いに乗っていたケツメイシの大蔵。オーディションの結果は惨敗で、審査員から郵送で送られてきたコメントは「もっと聞き取りやすく歌いましょう」だった(オーディションにはMiss Mondayもエントリーしていた)。それでも雑誌に名前が載る事で自信をつけ、デモ制作にますます力を注ぐようになるがここで災難が起こる。 メンバーのJINSEIがネフローゼ症候群という重い病気にかかり、入院してしまう。そこで残されたメンバー ZRO、KZ、YOPPYはお見舞いに1曲作っていくことにした。常に一緒にいたJINSEIは、グループの中でも「いじられキャラ」だったために、あまり「シリアスな頑張れ」は奴らしくないということで、ジャングル・ブラザーズ「VIP」の陽気なインストに合わせ、病名にかけた「ネムローゼ」いう曲を製作。下ネタなども盛り込んだ曲故に怒られるかと思いきや、そこでJINSEIがしんみりと病室の隅で曲を聴き涙する姿に「応援歌って良いのかも」と三人が実感するきっかけとなった。また、YOPPYの高校時代の親友であり、エイジアエンジニアのライブDJをしていたDJ MATSUがオーストラリアに留学することが決まった際にも、彼の渡航の餞別となる応援歌をプレゼントする。彼もまた地元飲み屋で聞いて号泣。「ポジティブな音楽の力でスマイルを作る」ことの無限の可能性を感じることとなる。DJ MATSUに代わりバックDJを務めたのは、のちにグループのライブDJ兼マネージャーとなるDJ taki06Rである。 JINSEIが無事退院すると、六本木COREのレギュラーイベントの誘いが来る。そこで当時バックトラックのセレクトを手伝っていたSHUHEIの家で練習をしようとメンバーで足を運ぶと、シャワーに入っていたSHUHEIが興奮しながら出てきた。人生を変えるメロディーを思いついたと。それがのちにデビュー曲になるヒーローのサビだった。 デビューの夜明け前 その日から急にメンバーとなったSHUHEIを交え5人体制となったエイジアエンジニア。SHUHEIは高校時代、既に歌うことやラップすることを始めており、当時「YOKOHAMA HIGH SCHOOL Hot Wave Festival」という横浜スタジアムで毎年行われていた観客数三万人規模のイベントに出場するなど、若くして作曲の才能を持ち合わせていた。SHUHEIの両親はサザンオールスターズを輩出した青山学院大学の二大軽音楽部(サザンがのいない方)で部長を父親が、副部長を母親がしており、幼少期より父のギター、母のピアノに合わせてピーター・ポール&マリーのハモ部分を歌わせられる音楽一家であった。 SHUHEIの加入により、当時アナログレコードのインストに合わせてラップ作りをしたものに、メロディー、コード感とオリジナルのトラック制作がプラスされた。初期のトラック制作においての使用機材はAKAI MPCから始まりKORG TRITON。それぞれがお金を出し合って機材やマイクを購入して作曲をしていく。デモの曲数を増やしていく。次第にSHUHEIの大学同級生であるUと、田村(のちの株式会社インクス代表取締役)がトラックや、スタジオ面をサポート。「USB」というトラックチームを作り、結成から三年ほどたった時グループの作曲クオリティーは大手レコード会社が多く見に来るほどになっていた。 その当時はFUNKY MONKEY BABYS、SOUL’d OUT、HOME MADE家族、BENNIE K、SOFFet、SEAMOといったその後のポップなラップ文化を築いていくグループと対バン。ライバルがどんどんデビューして、またヒットしていく様を眺めていく。毎度毎度がチャンスと望むが、とうとう学生時代にメジャーへの切符は手に出来なかった。 ZROが大学を卒業して就職、大学時代に大手出版社でライターのアルバイトしており、編集部の人間が人事にいた関係上、卒業後は出版社で漫画関係の仕事に就くと思っていたが、入社試験の筆記であっけなく落とされる。焦る頃にはほとんどの会社が採用を締め切り。とりあえず就職しなければと新橋の不動産屋に入る。不動産屋は今でいう完全なブラック企業で、朝は8時から夜は24時まで。売り上げ未達だと土曜日も出勤と珍しいくらいの真っ黒な会社で、社員全員にGPSがつけられ少しでも休むとすぐにバレる会社であった。ZROが全く身動き出来なくなるが、大事なイベントが金曜日の夕方帯であればスーツを着てライブ会場に現れ、そこでメンバーと合流。ライブを終え会社に戻り「宇田川町のビルのお客さんと話をしましたが、まだだいぶ先の話ですね」などGPSをアリバイにした嘘の言い訳をしていた。 その一方で「音楽で生きていく!!」、「メジャーデビューをする!!」という夢を掲げフリーターを続けていたYOPPY、KZ、SHUHEIが結束し代登。YOPPYがグループのホームページを作成、デモCD-Rを1,000枚焼き、渋谷や原宿界隈で配るなど必死にデビューに向けての動きを取っていた。 ZROは半ば諦め、みんながいつ音楽をやめるんだろうと思いながら仕方なくついていく、しかしとうとう対峙する時が来る。「今度こそ本当にデビュー出来そうだから会社を辞めてくれ」、そうメンバーから言われる。2000年代初期は超就職氷河期であった。「今仕事を辞めたらかなりまずい事になるのでは?」と考えていたが、DJ taki06Rから「ここで辞めなければお前と絶交し一生見下す」と言われ、ここまで自分が必要とされる事は今の会社ではないな。あと本当に気まずいのもやだしなぁ。そう考えてZROは会社に辞表を出す。うだつのあがらない新入社員が「来年メジャーデビューするんで」、という嘘にしか聞こえない辞表の提出であった。
デビュー後の活動 それから半年後、グループ結成から約6年間の下積みを経て2005年2月、エイベックス rhythm zoneよりメジャーデビューが決定。決め手となったのは同レーベル所属アーティストであったm-floを売った関佳裕、オダシュンゴがライブを観に来たことであった。二子玉川pink noiseで行われたライブを観て「明日にでも契約しよう」と伝えられる。夢の切符を本当に手にしたメンバー。製品となる最初のCDの制作を始める。はじめての製品版CDの制作を終え、当時よくライブを行っていたVUENOSでリーダーYOPPY(いつの間にかリーダーはZROからYOPPYへ交代していた)が乾杯の音頭を取り涙を流した。全ての苦労が報われ、夢は叶うと言い続けて実現させた瞬間であった。 メジャーデビュー前にリリースしたインディーズミニアルバム『Groovin’ Group』はHMV渋谷インディーズチャートのラップ部門年間一位を獲得。メジャーデビューをきっかけにサウンドプロデューサーとしてケツメイシのサウンドプロデュースを手掛けていたYANAGIMANが加わる。 ルーキー時には「SUPER DRY B-JAM」にレーベル推薦の有望新人アーティストの1組としてエントリーし、木村カエラ、スムルースなどを破り、その後代々木第一体育館で行われたジャミロクワイ、アシャンティ、DREAMS COME TRUE出演の「MTV THE SUPER DRY LIVE」での前座ライブの権利を獲得する。活動の幅は通常のラップグループよりもリベラルで、『アンパンマン』の作者である やなせたかし、倉本美津留、朝青龍、はるな愛とコラボしたコカコーラ社ファンタモミモミフローズンCM「Momi Momi fantastic feat.はるな愛」やTUBEにフューチリングした「恋してムーチョfeat.エイジアエン エンジニア」など幅広く活動。TUBEとは横浜スタジアム、甲子園球場でのライブのアンコールのフィーチャリングでも参加した。 2008年の北京五輪の際、丸大食品 頑張れニッポン応援CMにて「絶対負けない!」が起用される。キャンペーンにて応援した日本女子ソフトボールチーム、谷亮子、ジャケットに登場したアニマル浜口の娘の浜口京子選手が全てメダルを獲得。絶対負けない伝説としてメディアを沸かせる。 2012年3月 活動休止を発表。ラストライブは赤坂BLITZ。集まった1,500名のファンに惜しまれながらも活動休止前の最後のワンマンライブを行う。 2019年12月31日 日本の女子シュートボクサーであり総合格闘家の RENA選手(レーナ、1991年6月29日 - )の応援のため、RIZIN.20にて一夜限りの復活を果たし2万2千人が見守る中「絶対負けない!」を歌唱。RENAは前回敗北したリンジー・ヴァンザントに雪辱を果たす。 ディスコグラフィーシングル
配信限定シングル
オリジナルアルバム
アナログ盤
その他
ミュージックビデオ
出演
Web
主な出演イベント
出典
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