野島 |
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基本情報 |
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建造所 |
三菱神戸造船所[2] |
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運用者 |
大日本帝国海軍 |
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艦種 |
運送船[2]→ 運送艦[3](給炭艦[4]) |
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級名 |
室戸型[5] |
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建造費 |
約1,570,000円(試算額)[6] |
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母港 |
1924年時 呉[4] 最終時 佐世保[7] |
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艦歴 |
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計画 |
大正6年度[1](臨時軍事費による[8]) |
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起工 |
1918年7月16日[9][10] |
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進水 |
1919年2月3日[11] |
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竣工 |
1919年3月31日[10][12] |
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最期 |
1943年3月3日沈没 |
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除籍 |
1943年4月20日[7][注釈 1] |
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要目 |
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基準排水量 |
公表値 8,215トン[10] |
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常備排水量 |
公表値 8,751トン[10][注釈 2] |
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軽荷排水量 |
2,449トン[4] |
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総トン数 |
3,969.68総トン[4] |
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全長 |
358 ft 1+1⁄2 in (109.16 m)[4] |
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垂線間長 |
345 ft 0 in (105.16 m)[4] |
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最大幅 |
50 ft 2 in (15.29 m)[4] |
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吃水 |
軽荷 7 ft 5+3⁄4 in (2.28 m)[4] 満載 23 ft 11+1⁄8 in (7.29 m)[4] |
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ボイラー |
片面円缶2基[4] 1930年以降 宮原式缶3基[1] |
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主機 |
直立3気筒3段膨張レシプロ1基[13] |
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推進 |
1軸[4] |
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出力 |
計画 2,500馬力[14] |
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速力 |
計画 12.5ノット[10] 1938年時 14ノット[13] 経済速力 8ノット[4] |
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燃料 |
石炭満載639.6トン、缶前8トン[4] |
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航続距離 |
4,680カイリ / 8ノット[4] |
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乗員 |
竣工時定員 123名[15] 1920年8月1日以降定員、公表値 124名[10][16] |
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搭載能力 |
載貨重量トン 5,863.88トン[4] 石炭満載5,296トン[4] 缶水781.61トン、雑用清水3.3トン、飲水42.9トン[4] 獣肉、魚肉、野菜、氷の各冷蔵庫[4] |
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兵装 |
45口径三年式12cm砲 単装2門[4](平時は陸上保管) 40口径三年式8cm単装高角砲(1932年以降)[1] |
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搭載艇 |
3隻[14] または内火艇1隻、カッター2隻、通船1隻[4] |
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その他 |
前部3トンデリック4本[4] 後部3トン4本、同2.5トン2本[4] |
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トンは英トン 計画要目は室戸型給炭艦の要目を参照 |
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野島(のしま)[2][17] は日本海軍の給炭艦で、室戸型給炭艦の2番艦[18]。
艦名は野島崎(千葉県安房郡の白浜町)による[19][20]。
概要
特務艦野島は[20]、日本海軍が運用した運送艦[21]。1919年(大正8年)3月末に、三菱神戸造船所で竣工した[22]。日本海軍が建造した最後の給炭艦となった[23]。
1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時は海軍省附属だったが、12月20日より南遣艦隊附属となった[21]。南方へ向け進出中の12月27日、香港沖合で米潜水艦(パーチ)の雷撃で大破、擱座した[23]。1942年(昭和17年)2月1日、予備艦となる[24]。同年12月まで、香港で修理をおこなった[21]。また12月15日附で連合艦隊附属となり[25]、外南洋部隊に編入される[26]。内地に帰投した野島は、佐世保で修理をおこなった[21]。
1943年(昭和18年)1月中旬、野島はラバウルに進出して第八艦隊の輸送作戦に従事した[21]。同年3月3日、第八十一号作戦に従事中、連合軍航空機の攻撃により沈没した(ビスマルク海海戦)[21][27]。
艦歴
太平洋戦争以前
1917年(大正6年)度の臨時軍事費で、室戸と共に建造[23]。同年12月15日、「野島」と命名[28][2]。
1918年(大正7年)7月16日、三菱神戸造船所で起工[20]。
1919年(大正8年)2月3日、進水[11][20]。3月31日、竣工[12][20]。佐世保鎮守府籍となる[29]。
竣工当初は運送船に類別されたが1920年(大正9年)4月1日附で運送艦(給炭)に類別変更された[30][31]。 1922年(大正11年)8月26日、カムチャツカ半島で悪天候のため海防艦新高が転覆沈没すると、野島は装甲巡洋艦八雲等と共に遭難現場へ派遣された[32][33]。
1926年(大正15年)11月29日附で艦艇類別等級表(特務艦)に室戸型給炭艦が新設され、「野島」は室戸型2番艦に類別された[18]。
1930年(昭和5年)にはボイラーが換装され 宮原缶3基を搭載、速力が14ノットに向上した。
1932年(昭和7年)の第一次上海事変に際し、12cm砲を8cm高角砲に換装して参加した[23]。また1937年(昭和12年)からの日華事変にも参加した[23]。
太平洋戦争
1941年(昭和16年)5月1日、野島は海軍省附属となった[22]。12月20日、野島は南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将、馬来部隊指揮官)付属となった[21]。12月22日に内地を出港、カムラン湾に向かう[22]。12月27日午前10時40分頃[34]、香港の南西沖で米潜水艦パーチの雷撃を受ける。魚雷は命中したが爆発せず、二番船艙を貫通した。この時、馬来部隊所属の練習巡洋艦香椎、駆逐艦磯波と綾波、海防艦占守とタンカー黒潮丸がカムラン湾から澎湖諸島の馬公市にむかっていた。占守と黒潮丸は航海をつづけ、駆逐艦が爆雷を投下した。パーチは海底に潜んで危機をやりすごした。香椎が野島の救援をおこなう。沈没を免れるため、野島は紅海湾に擱座した[21]。
翌1942年(昭和17年)1月19日、波浪により野島の船体は切断された[22][39]。
1月29日、曳航されて香港に入港、同地で第2工作部により修理がおこなわれる[22]。
2月1日、第四予備特務艦に定められた[24][40]。
12月8日まで修理が行われた[21][41]。この修理の際、マスト形状を単脚マストから門型マストに変更している[42]
修理完了後、12月10日に香港を出発する[43]。航海中の12月15日付けで在役特務艦に指定され[44]、連合艦隊付属に編入された[22][45]。同日附で外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入された[26]。第八艦隊(司令長官三川軍一中将)附属[46]。
12月19日、野島は佐世保に到着した[22]。
1943年(昭和18年)1月6日に野島は佐世保港を出港し[22]、19日にニューブリテン島のラバウルに到着した[22]。その後はコロンバンガラ島への輸送任務などに従事した。1月28日、ラバウルを出発し、2月3日にショートランド泊地に到着[22]。2月12日から13日にかけて、「野島」は駆逐艦「皐月」と「文月」の護衛でショートランド~コロンバンガラ島輸送任務に従事し、糧食などを運んだ[47][48]。連合軍の重爆撃機と戦闘機による空襲があったが、対空戦闘および零式艦上戦闘機や零式水上観測機の直衛により、輸送は成功した[48]。
2月15日に野島はショートランド泊地を出発し[22]、2月17日にラバウルに到着した[22]。
沈没
同年2月下旬、野島は南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)による第八十一号作戦の1隻(船隊区分においては第二分隊7番艦)として、ニューギニア島ラエへの輸送任務に就いた[49]。船団の直接護衛を、第三水雷戦隊司令官木村昌福少将が担当する[50]。ラバウル出港前、松本(野島艦長、海兵45期)は佐藤康夫大佐(第8駆逐隊司令、海兵44期)に「今度の作戦は非常に危険で野島は沈むだろうから、骨だけは拾ってください」と頼むと、佐藤は「朝潮が護衛する限り見殺しにはしない。野島乗組員を救いにゆく」と約束したという。
日本時間2月28日2330、第三水雷戦隊司令官木村少将(旗艦「白雪」)指揮下の日本軍輸送船団(駆逐艦8隻〔第11駆逐隊〈白雪〉、第8駆逐隊〈朝潮、荒潮〉、第9駆逐隊〈朝雲〉、第16駆逐隊〈時津風、雪風〉、第19駆逐隊〈敷波、浦波〉〕、輸送船8隻〈神愛丸、帝洋丸、愛洋丸、健武丸、旭盛丸、大井川丸、太明丸、野島〉)[49] はラバウルを出発した[55][56]。
船団には3月1日から敵に接触された[55]。3月2日夕刻、B-17重爆による空襲を受け、野島は至近弾により戦死傷者18名を出した(他に輸送船旭盛丸沈没)[55]。
3月3日、船団はクレチン岬の沖で連合軍機の攻撃を受ける[59]。野島は8時00分ころに缶室、機械室に被爆し火災発生、航行不能となった[27]。また、野島の被弾と前後して、野島の左舷側を航行していた駆逐艦3隻(時津風、荒潮、雪風)のうち[59]、時津風(0809頃)[60] と荒潮(0810頃)[61] が被弾して大破する。舵故障・艦橋大破状態の荒潮は、野島に衝突した[61]。
野島は12時30分に総員退去となる[27]。その後、午後の空襲で爆撃を受けて沈没した[27]。
連合軍機離脱後の午前9時頃、健在艦(敷波〈木村少将移乗、旗艦〉[64]、浦波、朝雲、雪風、朝潮)は損傷艦や生存者の救援を開始した[65]。すると「一〇三五敵機二四機発進」との報告があり、木村少将は救助作業の中止と戦場離脱を命じた[65]。だが佐藤大佐(駆逐艦朝潮座乗)は敷波(三水戦司令官木村昌福少将)に「ワレ『野島』艦長トノ約束アリ、『野島』救援ノ後、避退ス」と発信し[65]、野島の救助に向かった。敷波、浦波、朝雲、雪風は朝潮を残して戦場を離れた[65]。
遭難地点に残った朝潮は救助作業を続行し、松本ふくめ野島乗組員は朝潮に救助された[65]。また航行不能になった荒潮乗組員の一部も朝潮に移った[61][68]。だが朝潮も13時15分以降に二回に亘る空襲を受け、沈没する[65]。脱出した野島乗組員は、再び漂流することになった。佐藤大佐は松本の懇願をことわり、「朝潮」と共に戦死した[65]。
本作戦において野島を含め輸送船8隻は全滅して陸軍兵約3000名が戦死、護衛艦艇も4隻(白雪、時津風、朝潮、荒潮)が沈没、健在艦は4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)と救援艦(初雪)であった[56][65]。
松本(野島艦長)以下生存者はボートや大発動艇に乗って漂流した。3月7日、松本艦長以下44名は潜水艦呂101[65] に救助された。陸地にたどり着き、ゲリラと交戦しつつ、自力で現地日本陸軍に合流した者も少数いたという。
同年4月20日、除籍[7]。
歴代艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。階級は就任時のもの。
- 艤装員長
- (兼)土肥金在 中佐:1919年3月15日[78] -
- 指揮官
- 特務艦長
同型艦
脚注
注釈
- ^ #日本海軍特務艦船史p.26、中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.31では1943年4月30日としている。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その三、大正9年3月調べの要目一覧では単に排水量8,750噸とある。また#T14公文備考42/特務艦要目画像5-18、特務艦要目表(大正13年11月調)海軍省軍務局では満載排水量を8,751噸としている。
出典
参考文献
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- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
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- 戦史研究家海老原康之『夜戦の白眉 "第八駆逐隊" 朝潮型四隻の奮戦 朝潮、大潮、満潮、荒潮。第二水雷戦隊所属の精鋭たちのバリ島沖海戦』
- 当時「時津風」水雷科指揮所伝令・海軍一等水兵桝谷克彦『ラエ輸送の悲劇 炎と波とわが時津風と 反跳爆撃に斃れた第十六駆逐隊=時津風と雪風のビスマルク海海戦』
- 寺崎隆治ほか『補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1。
- 戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争』
- 土井全二郎「第三章 ダンピールの海」『撃沈された船員たちの記録 戦争の底辺で働いた輸送船の戦い』光人社〈光人社NF文庫〉、2008年5月。ISBN 978-4-7698-2569-2。
- 豊田穣『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』光人社〈光人社NF文庫新装版〉、2004年11月。ISBN 978-4-7698-2027-7。
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- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
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関連項目