荒埼 (給糧艦)
荒埼(あらさき)[17]は、日本海軍の運送艦(給糧艦)[2]。 杵埼型給糧艦の1隻[3]。 艦名は岬の名で、鶴岡市北西の加茂港附近、三浦半島南西岸、平戸諸島生月島の南端、宮崎県志布志湾の東口(都井岬の西)など各地にその名前がある[18]。 艦歴昭和16年(1941年)度(後にマル臨計画と呼称[6])に雑役船として計画された[2]。 1942年(昭和17年)11月10日に大阪鉄工所桜島工場で起工[2]、 1943年(昭和18年)2月5日荒埼(アラサキ)と命名され[17]、 同日特務艦類別等級で運送艦、杵埼型に加えられた[3]。 2月27日進水、5月29日竣工し[2]、 同日在役特務艦に定められ[5]、 連合艦隊付属に編入された[19]。 太平洋戦争では主に糧食補給と輸送任務に従事した[2]。 7月18日佐伯を出港し、ラバウル方面の糧食補給任務に従事した[19]。 9月19日「りおん丸」を護衛し、スラバヤへ回航[19]。 11月2日ラバウル入港、敵機の攻撃で損傷した[19]。 11月19日スラバヤ入港、入渠し修理を行った[19]。 12月14日スラバヤ出港、ラバウルの糧食補給任務で2往復した[19]。 1944年(昭和19年)2月23日スラバヤを出港し、パラオ、ダバオ方面の糧食補給任務に従事した[19]。 4月24日スラバヤ出港、リンガ、タウイタウイ方面で機動部隊への糧食補給を行った[19]。 8月27日シンガポールに入港し、修理を行った[19]。 9月10日シンガポール出港、以後サイゴン、リンガ、ブルネイ方面の補給任務に従事[19]。 1945年(昭和20年)2月1日スラバヤ西方で触雷し航行不能になった[19]。 スラバヤで修理を行い、以後バリ島への補給を2回実施[19]、 終戦時はスラバヤに所在した[2]。 1945年(昭和20年)10月5日除籍[2]。 1946年(昭和21年)2月20日に特別輸送艦に指定され[20]、 復員輸送に従事、その後特別保管艦に指定された[2]。 連合国への艦艇引渡の際は同行して回航員の帰国に使用された。 第2回引渡の時は1947年(昭和22年)7月26日佐世保を出港、8月14日にシンガポールで艦艇引渡が行われると回航員を収容し佐世保に帰港した[21]。 第3回引渡の時は8月25日7時30分荒埼は引渡艦艇と共に佐世保を出港[22]、28日ナホトカに到着し、同日随伴の艦艇の引き渡しが行われた[23]。 その後荒埼は一旦米国に引き渡され、同年10月1日に指定解除され日本に返還された[2]。
1948年(昭和23年)4月に農林水産省へ移管し、水産講習所(後の東京水産大学)練習船、海鷹丸(うみたかまる)となった[2]。 1955年(昭和30年)8月解役し大蔵省へ返還[2]。 1956年(昭和31年)幸和商会へ売却、同年8月に関西汽船に転売され佐野安船渠で改造され、高知丸と改名した[2]。 1963年(昭和38年)に再度改造されなにわ丸(なにわまる)と改名、日韓航路に就航した[2]。 1967年(昭和42年)4月にフィリピン・ロドリゲス商会へ売却された[2]。 脚注注釈出典
参考文献
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