高崎(たかさき)は、日本海軍の給油艦。軽質油運搬艦である洲埼型給油艦の2番艦。
艦名は3代目。由来は島根県隠岐西ノ島の岬の名、また対馬舟志湾内の高崎鼻によるという2つの説がある[19]。[注釈 1]
艦歴
1940年(昭和15年)度マル臨計画により三菱重工業横浜船渠で建造され、1943年(昭和18年)9月2日に竣工。横須賀鎮守府籍となり、同日に海軍省付属とされる[20]。「高崎」の竣工後の行動は断片的にしか判明していないが、門司に回航の後、9月15日門司発のサ13船団に加入して昭南(シンガポール)に向かう[20][21]。9月28日に昭南に到着の後、油類を搭載して10月3日に昭南を出港[22][23]。高雄に寄港の後[23]、門司へ向けて最後の航海を行っていたが、10月14日にアメリカ潜水艦「グレイバック」の攻撃で特設運送船(給油・応急タンカー)「高瑞丸」(高千穂商船、7,072トン)が沈没した[24]。グアム方面への航海の後[20]、12月中に昭南へ一航海行う[20]。帰途は海防艦「対馬」が護衛する12月26日昭南出港のヒ26船団に加入[25][26]。1944年(昭和19年)2月5日付で連合艦隊付属に編入されたが[20]、引き続き輸送任務に従事した。
2月21日、「高崎」はヒ47船団に加入して門司を出港し[20][27]。以後、南方に進出してバリクパパン、マニラ、パラオ、サイパン島方面への燃料輸送に従事する[20]。6月1日、「高崎」は海防艦干珠の護衛を受けてヤップ島を出港した[28]。途中で特務艦「足摺」と合同し[注釈 2]、スールー海を航行中の6月5日に北緯06度32分 東経120度40分 / 北緯6.533度 東経120.667度 / 6.533; 120.667のクラシアン島近海でアメリカ潜水艦「パファー」に発見された[29]。「パファー」は魚雷を7本発射して全てが命中したと判断され[30]、「高崎」と「足摺」はこの攻撃により沈没した。7月10日に除籍された[20]。
歴代艦長
- 艤装員長
- 吉田利喜蔵 大佐:1943年7月1日[31] - 1943年9月2日[32]
- 特務艦長
- 吉田利喜蔵 大佐:1943年9月2日[32] - 1944年6月15日[33]
同型艦
脚注
注釈
- ^ 先代である2代目の剣埼型潜水母艦「高崎」(後の空母瑞鳳)は1928年(昭和3年)の資料で対馬国の高崎鼻が由来とされている* 1928年 東京水交社 出版 浅井将秀 編 「#日本海軍艦船名考」P.75〔高崎 たかさき Takasaki. 岬名(對島國舟志灣内高崎鼻)ニ採ル。〕
- ^ #日本の軍艦13p.45 、#木俣空母pp.598-599 では、「足摺」が6月1日にいたのはヤップ島となっているが、#MS30 1904と#MS30 1905を見る限りでは、6月1日の時点で「足摺」はヤップ島ではなくバリクパパンにおり、「高崎」とは道中で合流したことになる。
出典
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08030139800『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 (第一海上護衛隊)戦時日誌』、21-46頁。
- Ref.C08030139900『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』、1-26頁。
- Ref.C08030463200『武装商船警戒隊戦闘詳報 第二四九号』、22-25頁。
- Ref.C08030140200『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』。
- Ref.C08030140300『自昭和十九年二月一日至昭和十九年二月二十九日 第一海上護衛隊戦時日誌』、29-53頁。
- Ref.C08030617200『自昭和十九年四月一日至昭和十九年四月三十日 (第三十号掃海艇)戦時日誌』。
- Ref.C08030617300『自昭和十九年五月一日至昭和十九年五月三十一日 (第三十号掃海艇)戦時日誌』。
- 『昭和17年 達/12月(2)』。Ref.C12070117700。
- 『昭和17年10月~12月 内令 4巻止/昭和17年12月(4)』。Ref.C12070167000。
- 『昭和18年5月~6月内令2巻/昭和18年5月(5)』。Ref.C12070177600。
- 『昭和18年9月~10月 内令4巻/昭和18年9月(2)』。Ref.C12070180500。
- 『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年7月』。Ref.C12070197800。
関連項目