荏原オデヲン座
荏原オデヲン座(えばらオデオンざ)は、かつて東京に存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6]。東亜興行が新宿・歌舞伎町に進出した半年後の1952年(昭和27年)4月、品川・東中延に開館した[3]。 沿革データ
概要1952年(昭和27年)4月、東京急行電鉄池上線荏原中延駅の東側、品川区東中延一丁目387番地(現在の東中延一丁目11番21号)に開館した[3][4][6][8]。1949年(昭和24年)8月、阿佐ケ谷駅北口に「阿佐谷オデヲン座」を開館して創業した高橋康友の東亜興行株式会社が、前年1951年(昭和26年)11月に開館して新宿・歌舞伎町に進出した「新宿オデヲン座」、それについで4館目に開業した映画館である[1][3]。 同館は開業当時から外国映画(洋画)の三番館、つまりロードショーを終えた作品をその2週後に上映する劇場で、たとえば1954年(昭和29年)1月には、1952年9月4日に日本で初公開された長尺の『風と共に去りぬ』(監督ヴィクター・フレミング)[9]を単独で上映し、翌週には前年の暮れである1953年12月27日に日本で公開された『男の叫び』(監督ウィリアム・A・ウェルマン)[10]、および同じく『荒原の疾走』(監督ジョン・ファロー)、戦前の公開作の再映『キング・コング』(監督メリアン・C・クーパー)が三本立てで上映されている[注釈 1]。 同館が建つ前、とくに第二次世界大戦前の荏原中延駅の近辺には、1932年(昭和7年)に中延電気館(東中延二丁目402番地)が建つまでは映画館が存在せず、周囲の戸越銀座駅、蛇窪駅(戸越公園駅)近辺には、荏原館(戸越162番地、のちの小山二丁目162番地)、八幡館(戸越1166番地)、富士見館(下蛇窪763番地、のちの二葉町三丁目537番地)、戸越キネマ(のちの戸越銀映座、戸越1169番地、のちの東戸越一丁目1169番地)が存在していた[11][12]。戦時中の1942年(昭和17年)までには、荏原館、富士見館、荏原大都館(のちの荏原大映劇場、荏原三丁目129番地)、荏原明神館(二葉町五丁目454番地)、小山映画劇場(のちの西小山文化劇場、小山六丁目353番地)、荏原劇場(西中延四丁目950番地)があり、荏原中延駅の近辺には中延電気館、戸越銀映座が存在した[13][14]。 戦後は、荏原中延駅の周辺には「荏原オデオン座」のほかに荏原センター劇場(東中延二丁目445番地)があり、荏原大映劇場は戦時中からひきつづきあり、戦前の小山映画劇場が西小山文化劇場・西小山名画座になり、1954年(昭和29年)までには、南星座(小山三丁目79番地)、バラ座(小山三丁目139番地)、巴里座(小山三丁目76番地)、プリンス座映画劇場(のちの荏原東映プリンス劇場、荏原三丁目145番地)、旗の台駅前に旗の台ミリオン座(西中延五丁目1223番地)と、非常に多くの映画館が花開いた[6]。1957年(昭和32年)までには、さらに荏原新映画劇場、戸越銀座劇場、戸越公園文化映劇が加わった[5]。東玉川に住んでいた田中小実昌は、雪が谷大塚駅から池上線に乗り、荏原中延駅で降りて「荏原オデオン座」で映画を観たことを『いろはにぽえむ』に記している[15]。 1980年代になると、これらの映画館もほとんどなくなり、成人映画館として残った荏原東映プリンス劇場が1983年(昭和58年)7月に閉館、「荏原オデオン座」も1987年(昭和62年)には閉館した[2][7]。 2000年(平成12年)8月には、跡地に8階建マンション「ジェイパーク荏原中延ステーションサイド」が竣工、分譲された[8]。同館の前の南北の通りを現在も「銀幕商店街」と呼ぶのは、同館に由来する[16]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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