阿佐谷オデヲン座
阿佐谷オデヲン座(あさがやオデオンざ)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6]。阿佐ヶ谷オデヲン座とも表記した[7][8][9][10]。東亜興行が新宿・歌舞伎町に進出する以前の1949年(昭和24年)8月、同社を創業するとともに最初に手掛けた映画館として知られる[6]。 閉館後の跡地に同社が経営するトーアセントラルフィットネスクラブ阿佐谷(トーアセントラルフィットネスクラブあさがや)についても本項で扱う。 沿革データ概要1949年(昭和24年)8月、東京都杉並区の阿佐ケ谷駅北口に開館、これを東亜興行株式会社の創業としている[6]。1946年(昭和21年)に中野区鷺宮に三亜薬品工業株式会社(現在のベーリンガーインゲルハイム製薬)を設立、胃腸薬「イモール」の製造販売を行った高橋康友が、映画界に進出した第一歩であった[6][11]。同社はこれを皮切りに、1950年(昭和25年)12月に「中野オデヲン座」、1951年(昭和26年)11月に「新宿オデヲン座」をそれぞれ開業、とくに「新宿オデヲン座」の開業は、新宿区歌舞伎町に建てられた映画館としては、林以文(ヒューマックス創業者)の「新宿地球座」(のちの新宿ジョイシネマ)に次ぐ第2号であった[6][11][1]。東亜興行株式会社の本社所在地は、1955年(昭和30年)12月に歌舞伎町に「グランドビル」が建つまでの当初、同館の場所に置かれた[3]。 阿佐谷オデヲン座は、外国映画(洋画)の三番館、つまりロードショーを終えた作品をその2週後に上映する劇場で、当時、週刊ニュースを独自に発行していた[12][注釈 1]。晩年の新居格(1888年 - 1951年)が同館の至近に居住している旨の葉書を受け取った石川三四郎が、その家を見舞ったとの記述が『新居格君を想ふ』に登場する[13]。当時、阿佐ヶ谷地区は文士村と呼ばれ、上林暁は同館の至近に住んでいたという[14]。 戦前の阿佐ヶ谷地区には、美須鐄(チネチッタ創業者)が経営した阿佐ヶ谷映画劇場(阿佐ヶ谷映劇、阿佐ヶ谷一丁目762番地)しかなかった[15][16]。戦後、オデヲン座が開館したころの同地区には、阿佐ヶ谷映劇との合計2館であったが[2]、1957年(昭和32年)になると、阿佐ヶ谷映劇は阿佐ヶ谷松竹(のちの阿佐ヶ谷東宝劇場[17])になり、阿佐ヶ谷名画座(1955年開館)を含めて合計3館になっていた[18]。1963年(昭和38年)には、すでに阿佐ヶ谷中央劇場が加わって、合計4館になり[7]、1966年(昭和41年)には、阿佐ヶ谷東宝劇場(かつての阿佐ヶ谷松竹)、阿佐ヶ谷名画座、阿佐ヶ谷中央劇場、オデヲン座の4館であったが[4]、1966年(昭和41年)には、阿佐ヶ谷東宝劇場、阿佐ヶ谷中央劇場、オデヲン座の3館になっていた[5]。1974年(昭和49年)ころには、オデヲン座のみが残った[9]。 1987年(昭和62年)10月19日から同年11月4日までの間、劇団第七病棟の演劇『湯毛の中のナウシカ』(作唐十郎、主演緑魔子、出演・演出石橋蓮司)を同館で上演している[19][20][21]。1988年(昭和63年)、閉館した。東亜興行は、1989年(平成元年)3月、跡地にフィットネス阿佐谷を新築・開業して直営(経営トーア・スポーツ株式会社)[22]、のちにセントラルスポーツに業務委託し、トーアセントラルフィットネスクラブ阿佐谷となって、現在に至る[6]。1998年(平成10年)11月、阿佐ヶ谷地区唯一の映画館としてラピュタ阿佐ヶ谷が、同館跡地の北側(阿佐谷北二丁目12番21号)に隣接した場所に開業した[23][24]。 トーアセントラルフィットネスクラブ阿佐谷
トーアセントラルフィットネスクラブ阿佐谷(トーアセントラルフィットネスクラブあさがや)は、日本のフィットネスクラブである[6]。1989年(平成元年)3月、東亜興行が映画館跡地に新築・開業、直営している[6]。セントラルスポーツ系列である。
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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