東玉川(ひがしたまがわ)は、東京都世田谷区にある町名である。現行行政地名は東玉川一丁目および東玉川二丁目。郵便番号は158-0084[2]。玉川地域に属する。
地理
世田谷区南部の玉川地域に属する。北側は世田谷区奥沢に接するが、他の三方は、大田区の田園調布、雪谷大塚町、石川町に囲まれている。面積は0.477平方キロメートル[1]。
都市計画法上の用途地域は、奥沢・田園調布との境界付近を除いた大半が第一種低層住居専用地域である[4]。
地価
住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、東玉川1-20-2の地点で64万7000円/m2となっている。
歴史
明治初期には荏原郡等々力村の飛び地で、かつて「諏訪分(すわぶん)」と呼ばれていた。この呼び名はこの地に「諏訪社」という神社があったための命名といわれている。
- 1889年(明治22年)、新市町村制実施に際して等々力村を含む8ヶ村が合併して玉川村が作られ、この地は「荏原郡玉川村大字等々力字諏訪分」となった。
- 1908年(明治41年)、政府の神社合祀令に従って、諏訪社を等々力の熊野神社(現:玉川神社)に合祀。
- 1926年(大正15年)、調布女学校(現:田園調布学園中等部・高等部)が創立。
- 1928年(昭和3年)、諏訪分の西部(現:東玉川二丁目)を縦貫する池上電気鉄道新奥沢線が開業。諏訪分駅、新奥沢駅が設置された。
- 1929年(昭和4年)、諏訪社再興の声が起こり、新たに境内地を確保して東玉川神社を創建した。これによって再び神社が創設。
- 1932年(昭和7年)、等々力から分離し「東玉川町」が新設。この町名は田園調布に隣接しているため、イメージアップを図り旧玉川村の東にあることに由来する方角地名となった。
- 1934年(昭和9年)、1928年頃に始まった諏訪分の耕地整理事業が完了。域内の区画整理と道路網整備が終わって、住宅地として秩序ある分譲を行う基盤が整った。
- 1935年(昭和10年)、新奥沢線が廃止。諏訪分駅、新奥沢駅が廃駅となった。
- 1967年(昭和42年)、住居表示実施。自由通りを境に東西に分離、東玉川一丁目・二丁目が新設。
住居表示実施前後の町名の変遷
実施後
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実施年月日
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実施前(各町名ともその一部)
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東玉川一丁目
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1967年6月1日
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東玉川町の一部
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東玉川二丁目
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東玉川町の一部
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世帯数と人口
2024年(令和6年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 |
世帯数 |
人口
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東玉川一丁目
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1,923世帯
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4,156人
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東玉川二丁目
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2,294世帯
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4,306人
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計
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4,217世帯
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8,462人
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小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]。
施設
公共
- 警視庁玉川警察署東玉川交番
- 世田谷区東玉川地区会館
教育
寺社・教会
交通
鉄道
町域内に鉄道は通っていないが、周辺に存在する下記の東急線各駅が利用できる。
なお、1928年から1935年まで目黒蒲田電鉄新奥沢線が現在の東玉川を南北に通っており、新奥沢駅と諏訪分駅が置かれていた。
道路
- 自由通り - 町域の中央をほぼ南北に縦貫している。
- 環八通り - 町域の西側にほぼ1キロメートルにわたって走り、田園調布との境界を形成している。
- 中原街道 - 町域の南部・東部に近接して通る。
- 東京都道426号上馬奥沢線 - 町域の北側で中原街道(石川台交差点)と環八通り(奥沢四丁目)とを結ぶ道路(一部は表記都道)として走り、奥沢との境界を形成している。
バス
1日5~6便のみである[6]が、次のバス路線が自由通りを通って東玉川を縦貫している。町域内には三つの停留所がある。
脚注
関連項目
外部リンク