第13代総選挙 (大韓民国)
第13代総選挙(だい13だいそうせんきょ)は、第六共和国における大韓民国国会の国会議員を選出するため、1988年4月26日に実施された韓国における総選挙で、1948年5月の初代総選挙から数えて13回目となる選挙である。韓国では選挙回数を「第○回」ではなく「第○代」と数える。また名称も「総選挙」(총선거)ではなく「総選」(총선)と表記するのが一般的である。なお本稿では選挙後の政局と3党合同についても少し解説する。 概要新憲法(第六共和国憲法)の施行に基づいて行われた総選挙である。 16年ぶりに国民の直接選挙によって行われた前年12月の第13代大統領選挙で盧泰愚候補を勝利させた与党民主正義党(民正党)に対し、両金(金泳三・金大中)間の候補一本化が失敗し、二つ(統一民主党・平和民主党)に分裂して大統領選挙に挑んで敗れた野党は、再統合交渉の失敗により分裂したまま総選挙に挑むことになった。そこに金鍾泌の新民主共和党(共和党)も加わり、大統領選挙の時と同様に再び四党による激しい選挙戦が展開された。選挙の結果、与党民正党は過半数を下回って敗北、平民党を中心とする野党が多数派を占める結果となった。 基礎データ1988年3月17日に公布・施行された新・国会議員選挙法に基づいて行われた。改正選挙法の特徴は、①中選挙区中心の制度から小選挙区中心の制度(並立制)に改められた。②地域区の議席比率の増加(三分の二→四分の三)。③全国区における第一党へのボーナス議席の減少(三分の二→二分の一)。などで、地域区の結果がそのまま、各党の選挙結果を大きく左右するようになったといえる。
選挙結果
解説与党の民主正義党(民正党)は第1党の座は確保したものの、過半数(150議席)を大幅に下回る議席に留まり、韓国憲政史上初めて与党が野党の総議席数を下回る「与小野大」の状態となった。野党は平和民主党(平民党)が得票率で民正党と統一民主党(民主党)に次ぐ3番目の得票率にもかかわらず、全羅道とソウル市で効率的に当選者を出したことが功を奏し、議席数で民主党を上回る第2党に踊り出た。民主党は得票率では民正党に次ぐ第2党になったが、議席数では第3党の地位に甘んじる結果となった。また金鍾泌が率いる新民主共和党(共和党)は、彼の出身地である忠清南道で広い支持を集め、院内交渉団体を形成するために必要な20議席を上回る議席を得る事ができた。 前年の大統領選挙において批支(金大中候補批判的支持グループ)グループ・候単(金泳三候補を念頭にした野党候補単一化グループ)グループ・独候(独自民衆候補擁立派、在野運動家の白基玩を擁立)に分裂した在野運動勢力は、批支グループが平民党に入党、候単グループの主要部分はハンギョレ民主党を結成、独候グループは民衆の党を結成して今回の選挙に挑んだ。選挙の結果、在野から平民党や民主党に入党した文東煥・朴英淑・趙昇衡・徐敬元・梁性佑・朴錫武・李喆鎔・李相洙・金泳鎭・鄭祥容・李海瓚(以下平民党)、姜信玉・盧武鉉(後の第16代韓国大統領)・李仁済(以下民主党)が当選、議会進出した。しかし、一方でハンギョレ民主党や民衆の党は実質的に当選者を出すことが出来ず(ハンギョレ民主党で当選した朴亨午は当選直後に平民党に入党)、現実政治の壁の厚さを痛感させる結果となった。
選挙結果と地域感情どの党も過半数を確保できず。多党制の状況が出現したが、前年の大統領選挙で表面化した地域主義が大きく影響したものであった。全国各地の人たちが在住するソウル以外では、平民党が光州市を含む全羅道で37議席中36議席を獲得しほぼ独占(残る1議席についても、當選者が平民党に入党したため完全独占となった)するなど、各党がそれぞれ本拠地としている地域で圧倒的強さを示した。また平民党は地盤である全羅道及び首都圏以外で議席を獲得できず、得票率でも首都圏と全羅道以外では10%を下回るなど慶尚道や忠清道地域住民の反全羅道感情がくっきりと現れる結果になった。 当選議員小選挙区民主正義党 平和民主党 統一民主党 新民主共和党 ハンギョレ民主党 無所属 補欠選挙
全国区
繰上当選
選挙後の情勢「与小野大」国会総選挙の結果、与党が過半数を確保できず、野党が多数を占めたことで、議員活動が活発化して政局の緊張感が高まった。野党各党は、1988年6月、「5共(第五共和国)政治権力形非理調査特委構成決議案」を採択し、決議に基づいて韓国憲政史上初の国政調査権が発動され、同年11月に「5共非理問題(新軍部政権の政治資金及び政経癒着問題)」と「光州民主化運動」、そして「言論問題」の国会聴聞会がそれぞれ5回ずつ開催され、政財界有力者が多数召喚され、聴聞会の様子がテレビで生中継された。この聴聞会で盧武鉉は証拠に基づく冷静沈着な証人審問により、広くその名が国民に知られることとなった。この一連の聴聞会で5共時代の不正が明らかになり、全斗煥は不正蓄財で国民への謝罪を余儀なくされ、江原道の山寺で隠遁生活を強いられることとなった。しかし、非協力的立場を採る与党や証人の不誠実な態度・真相究明の不徹底から国民はだんだん失望感を持つようになり、聴聞会の熱気も冷めてきた。それを見計らって政権側は強硬姿勢に転じ、野党間の協調体制を崩して、うやむやのうちに幕引きがされてしまった。 3党合同国会において野党が多数を占める「与小野大」の状況打破の為に、与党勢力は1990年の1月11日から13日にかけて統一民主党の金泳三総裁、平和民主党の金大中総裁、新民主共和党の金鍾泌総裁と個別に青瓦台で党首会談を行なって政界再編についての議論を行なった後で、与党・民主正義党と野党で保守系の統一民主党及び新民主共和党による3党合同について合意し、民主自由党を発足させることになった。
以上の5点を採択した。そして5月9日に全党大会を開催し、党総裁に盧泰愚を、金泳三を代表最高委員に選出した。民自党の発足により、議席が200を超える巨大与党が誕生し、「与小野大」の政局に終止符を打つこととなった。 民自党の発足について平民党や在野勢力は国民の意見を無視した一種の政治的クーデターだと非難する意思を示した。統一民主党の中で3党合同に反対した李基澤や盧武鉉らのグループは民主党を1990年2月27日に結成発起人大会、そして6月17日の結成大会をへて発足させ、平民党から党名を改めた新民主連合党(総裁:金大中)と1991年9月に統合した(統合後の党名も民主党)。 脚注
出典資料関連項目外部リンク
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