津山三十人殺し
津山三十人殺し(つやまさんじゅうにんごろし)は、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。司法省による事件名は津山事件(つやまじけん)で、犯人の姓名を取って都井睦雄事件(といむつおじけん)とも呼ばれることもある。 都井 睦雄(とい むつお)が民家11件に侵入、住民を猟銃や刃物で次々と襲い、約1時間半の間に28名を即死させ、5名に重軽傷を負わせた(そのうち12時間後までに2名が死亡)。都井は犯行後に自殺し、被疑者死亡で不起訴となった。日本が明治維新後に西洋式の近代法制を整備して以降、戦争行為を除く犯罪としては、京都アニメーション放火殺人事件が発生する2019年までの81年という長きに渡って最多の犠牲者数だった。 横溝正史の小説『八つ墓村』、および西村望の小説『丑三つの村』のモチーフになった事件である。 事件発生以前
幼少期からの生活犯人の都井 睦雄(とい むつお)は1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市加茂町倉見)に生まれた。1918年7月18日に祖父、同年12月1日に父、1919年4月29日に母を亡くした[1]。全員が肺結核であった。 当時は結核感染者が多く出る家を労咳筋(ろうがいすじ)として忌み嫌う傾向があり差別の対象とされたため、都井に家督を継がせるべきかという議論が都井一族内で巻き起こった。結果として都井に継がせるべきではないとの判断が一族の大半を占め、最終的に都井宗家を継ぐのは、祖父の代で既に分家していた祖父の弟の一人(都井の大叔父)となった。 以降は祖父の後妻である、血縁関係のない祖母が後見人となり、その直後一家は加茂の中心部である塔中へ引っ越した。 さらに、都井が6歳のときに一家[注釈 1]は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越した。都井は両親より約13,000平方メートルの田畑と、約8,000平方メートルの山林を相続したが、いずれも倉見に存在する資産であった。また都井一家が暮らしていた倉見の屋敷も遺産に含まれたが、それら全てを合わせても都井宗家の資産全体のうち僅かなものだった。 都井は尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送っていた。病状はすぐに快方に向かい、実業補習学校に入学したが、姉が結婚したころから徐々に学業を嫌い、家に引きこもるようになっていき、同年代の人間と関わることはなかった。なお、事件後に岡山地裁検事局からの照会により西賀茂尋常高等小学校長が回答した昭和14年4月19日付「被疑者学業成績性行等回答書」によれば、都井の学業成績は尋常科および高等科の計8年間を通じ、体育科目も含めて全教科において10段階中全て8以上であった。また同回答書中の「性質素行」欄には「勤勉親切ヨク命ヲ守リヰタリ」、「正直ニシテ約束ヲ守リ礼儀ヲ重ンジ緻密ナリ」等と記載されている[2]。 1937年5月22日(昭和12年)、都井は徴兵検査を受け、結核を理由に丙種合格[注釈 2]とされた。そのころから都井は、それまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由として関係を拒絶されるようになる[注釈 3]。そして、心ない風評に都井は不満を募らせていった。 凶器の入手同年、狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入した。翌1938年(昭和13年)にはそれを神戸で下取りに出し、猛獣用の12番口径5連発のブローニング製散弾銃であるブローニング・オート5を購入した。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った。都井はこのころから犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていた。 しかし、都井が祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられたために家宅捜索を受けた。猟銃一式のほか、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃所持許可も取り消された[注釈 4]。 都井はこの一件により凶器類をすべて失ったが、知人を通じた猟銃や弾薬の購入、刀剣愛好家からの日本刀譲り受けなどによって再び凶器類を揃えた。 以前懇意にしていたもののその後都井の元から去り、他の村へ嫁いでいた女性(後述、Dの四女)が村に里帰りしてきた1938年(昭和13年)5月21日の未明、犯行は行われた。 犯行当日犯行準備都井は事件の数日前から、実姉をはじめ数名に宛てた長文の遺書を書いていた。さらに自ら自転車で隣町の加茂町駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握しておくなど[注釈 5]、犯行に向け周到な準備を進めていたことがのちの捜査で判明している。自分の姉に対して遺した手紙は、「姉さん、早く病気を治してください。この世で強く生きてください」という内容である。 1938年(昭和13年)5月20日午後5時ごろ、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社[注釈 6]への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。 翌5月21日1時40分ごろ、都井は行動を開始する。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえつけた。首からはナショナルランプ[注釈 7]を提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には9連発に改造したブローニング・オート5を持った。 決行都井は、近隣の住人を約1時間半のうちに次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。当時の貝尾集落では、夜間に施錠している家はなかった。被害者たちの証言によると、この一連の犯行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。最終的に死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名の被害者が出た。死者のうち5名が16歳未満(最年少は5歳)である。被害者の年齢表記は数え年となる。1950年に満年齢使用が義務化されるまでは数え年表記が一般的であり、都井は犯行当時満年齢21歳だったが、数えでは22歳となる。11軒の家が犯行に遭い、そのうち3軒で一家全員が殺害され、4軒の家は生存者が1名だけであった。 都井による激しい銃声と怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどした者だけが生存者となった。また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れた。また、ある家では、主人からの「決して動かんから助けてくれ」という必死の哀願に「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と応え、その場を立ち去っている。 被害にあった家
自殺と遺書約1時間半に及ぶ犯行後、都井は遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れた。家人は都井の異様な風体に驚いて動けない状態だったが、その家の子が以前から都井の話を聞きに来ていて顔見知りであったため、その子に頼み、鉛筆と紙を譲り受けた。都井は去り際にこの子へ「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけている。 その後、3.5キロメートル離れた仙の城と呼ばれていた荒坂峠の山頂にて[4]、追加の遺書を書いたあと、猟銃で自殺した。都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見された。猟銃で自らの心臓を撃ち抜いており、即死したとみられている。 遺書の内容は以下の通りである。
都井は遺書の中で、この日に犯行を起こす決意をしたのは、以前都井と関係があったにもかかわらず他家に嫁いだ女性が、貝尾に里帰りしてきたからだとしている。しかし、この女性は実家に都井が踏み込んで来たとき逃げ出して助かり、逆にこの家に逃げ込んだ隣家の家人が射殺されることとなった。 なお、当時の新聞では遺書は計3通が残されていたと報道されている。1通は姉にあてたもの、1通は宛名の無い長文(便箋18枚)のもの、1通は自殺現場で書かれたとみられるものである。現場で書かれた遺書の内容は紙面に掲載された[5]ものの上記の内容とは異なっており、書き換えた当事者の目的や意図は明らかでない。 事件後事件はラジオや新聞などのマスコミにより報道され、『少年倶楽部』もこの事件を特集した。 この事件が貝尾集落に与えた影響は大きく、前述のように、一家全滅したところもあれば一家の大部分を失ったところもあり、集落の大部分が農業で生計を立てていたためかなり生活が苦しくなったとされている。また、都井の親族で襲撃を受けることのなかった一家が、企みを前々から知っていて隠していたのではないかと疑われ、村八分に近い扱いを受けたともいわれている。 事件後、犯人の都井が警察による取り調べを受ける前に自殺し、さらに多くの被害者が亡くなったため、生存者による証言しか残っていない。しかし、生存者のほとんどが亡くなった被害者の誰かしらと親戚関係にあるため、その証言はすべての罪を都井にかぶせるようなものが多くなっているという意見もある。さらに、都井が死亡した以上、たとえ都井と関係があったと噂される女性でも本人が否定してしまえば確認する方法はなく、事実関係が不明な部分も多く残った。1975年(昭和50年)に刊行された『加茂町史』では、本事件について「都井睦雄事件も発生した」と記されるのみである。 近年事件発生現場・関係先の現在事件現場である貝尾集落は、周辺集落のなかでも一番山際にあたる部分にある。2015年春、倉見に廃屋となって残っていた都井の生家が取り壊された。 貝尾地区の人口は事件当時23世帯111人であったが、2010年の平成22年国勢調査によると13世帯37人となっており、うち単身の世帯が4あるなど限界集落化が進んでいる。直接被害者を出さなかった複数の世帯が事件後に貝尾を離れているほか、過疎化が進行しており、廃墟となっている家屋もある。事件当時から貝尾に居住している者はすでに一人もいないという。 70年後の証言事件発生から70年後にあたる2008年(平成20年)、『週刊朝日』5月13日号にて事件関係者による証言記事(記者:小宮山明希)が掲載された。その記事内で匿名でのインタビューに応じた90代の老人によると、都井は村が停電になった時によく修理を頼まれていた。また、事件が発生したその日のうちに「昭和の鬼熊事件」と題した号外が出たと述べている[6]。当時村に残っていたとされている夜這いの風習については否定している[6]。 なお、この証言については司法省刑事局による「津山事件報告書」[2]と食い違う部分がある。 文献
モデルとした作品
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク
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