東京都立上野高等学校(とうきょうとりつうえのこうとうがっこう)は、東京都台東区上野公園に所在する東京都立高等学校。「上高」の通称で呼ばれている。
概要
1924年に関東大震災後の学校不足解消のために、旧東京市が第二東京市立中学校として開校[1]。
本校は上野公園の端、東京芸術大学と上野動物園に接しており、東京大学本郷キャンパスからも徒歩圏の文教地区内に位置する。立地の良さを生かし、それら近隣の文化施設への訪問を授業や課外活動や進路指導に取り入れている。
全日制の卒業生数は2019年時点で2万2千人、定時制の卒業生数は閉課程前の2002年時点で7800人を超え[2]、各界に著名人を輩出している。
旧制中学(第二東京市立中学校)時代は一高の合格者数でほぼ連年全国TOP20位入り、TOP10位入りを続ける進学校だった[3]。新制高等学校(東京都立上野高等学校)になってからも1960年代までは東京大学合格者を30名-40名前後輩出(浪人を含む)しTOP20位以内に入っていた。しかしその後、学校群制度(1967年から1981年)を嫌った学力の高い生徒が私立中高へ流出したことや、学生運動後の本校の自由な校風が進学に不向きとして敬遠されるようになり、都立高校受検でほぼ全入が続き入学者の学力低下を招いた。その結果学校群制度が廃止された後も、同じ学校群を組んでいた白鷗高校(厳しい生活指導と現役大学合格を目指す進学指導で知られていた)に比べ進学実績が低迷した。しかし低迷期にあっても芸術系大学に強いという特徴は維持した[4]。
2003年(平成15年)、文部科学省により学力向上フロンティア・ハイスクールに指定された[5][6]。続く2004年(平成16年)には東京都教育委員会から重点支援校に指定(2011年(平成23年)再指定)され[7][8]、一時限45分・7時間授業の導入や土曜授業の復活、教員公募制の実施や夏休みの勉強合宿が開かれている。2005年(平成17年)度入学生から特別進学クラスが2クラス設置された。また、「東部地域の進学校の充実、かつての名門校の復活」を目的に、2014年(平成26年)4月、進学アドバンス校に指定(2019年(令和元年)5月同じ目的により再指定)[9]、さらに2016年(平成28年)4月、英語教育推進校指定校となる。これらの施策の結果、徐々に国公立大学合格者数をはじめとする進学実績が向上して来ている。
1969年に発生した学生運動以来の私服校であったが、2006年度から標準服が導入された。2016年度入学の71期生から制服が導入された。一般入試においては都の共通問題を使用している。学生運動以来生徒会はなく、行事毎に有志が集い運営するのが伝統となっている。生徒会のように継続的な運営母体がないため、有志が集まらないと行事も行われない。
交通
東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄 日比谷線・銀座線 上野駅・京成上野駅から、上野公園を横断して徒歩13分。東京地下鉄 千代田線根津駅からは徒歩7分に位置する。
赤羽、池袋方面から来る生徒は、日暮里駅から谷中霊園を通って通学する生徒も多い。
かつて京成電鉄博物館動物園駅が本校から徒歩約5分前後の最寄駅であったが、1997年同駅が利用停止(2004年に廃止)されたため利用できなくなった。
施設
- 現校舎は本棟、別棟、体育館棟、グラウンドからなる。体育館を除き土足。
- 本棟は地上5階、地下1階(傾斜地にあるため実際は半地下)。
- 地下1階に駐輪場。
- 別棟1階に自習室。自習室は180人まで収容、平日19時まで利用可。
- 本棟屋上にプール。
- グラウンド2面。グラウンドが狭いため運動会は外部の公共施設を利用して開催。
- 別棟に図書館や視聴覚室(320人まで収容)など。
- 校外施設として、公益財団法人上高会が長野県東御市に上ノ原山荘を所有・管理。本校関係者が利用可。
校訓・教育目標
本校の校訓は、初代校長高藤太一郎が大正デモクラシーの精神を汲んで定めた簡潔な標語であり、全日制・定時制・通信制に共通である。この校訓を土台にして、課程や時代に応じてそれぞれ具体的な教育目標が定められた。
校訓
- 「己を持するや自主、他と共にするや協調」の根本に立ち、個性の伸長に努め、自主的に行動するとともに、人格と人権を尊重して互いに協力し合う態度を身に付けさせる。さらに自律的な態度を伸長するとともに、規範意識を高め、社会の一員として社会に貢献できる人間の育成を目指す。
- 高い知性と豊かな情操を養い、自ら学び考え行動する創造力を身に付けさせるとともに、体力を向上させ、社会の発展に貢献し得る心身共に健康な人間の育成を目指す[10]。
教育目標(全日制・進学アドバンス校指定後)
- 校訓「自主協調」「叡智健康」のもと、「学力」「進学実績」「人間性」の三つの向上を目指す。
- さらに、東京都立上野高等学校は、「地域・東京を代表する進学校」「名門校の復活」を目指す。
- 「名門校の復活」とは、社会を牽引するリーダーを育成することを意味する。
教育目標(定時制・閉課程まで)
- 知性と情操に基づく個性の確立を図る。
- 自主的な意志による積極的な行動を促進する。
- 勉学と勤労を貴び、生涯にわたる学習の基礎を培う。
目指す学校像(通信制・閉課程まで)
通信制課程の特徴を生かし、生徒のライフスタイルや将来像に応じて、学習支援や進路指導を充実させ、不登校・中途退学などの教育課題の解決を図るとともに、通信制課程の特徴を積極的に生かすことを目的として入学する生徒一人一人の自己実現を図る。そのためにカリキュラムの改善、情報通信技術等を活用した学校運営等の改善等を図り、時代に即応した新しいタイプの通信制課程の学校づくりを推進する。
- 生徒のライフスタイルや学校教育に対するニーズに応じた教育サービスのできる学校
- 基礎的・基本的な学力を身につけ、社会人としての教養や判断力を身につけ、豊かな人間性を育む学校
- 生徒の実態に応じた進路実現を果たす学校
- 通信制課程の特色を生かし、定通が一体となった教育を推進する学校
沿革
[11]
主な年間行事
- 4月 入学式
- 4月 対面式
- 5月 校外学習
- 5月 運動会
- 6月 芸術鑑賞教室
- 9月 東叡祭(全日制文化祭)
- 11月 修学旅行(2年生)
- (11月 銀杏祭(定時制文化祭)定時制閉課により終了)
- 12月 不忍駅伝
- 3月 球技大会
- 3月 卒業式
主な部活動
全日制
定時制(2008年度末で終了)
関連団体
- 東叡会 - 同窓会[17]
- 上高会 - 本校PTAから発展し発足した後援会。上ノ原山荘(長野県東御市)の所有・管理、生涯学習支援等。当初は平林寺から土地を借りて建設した体育園の管理も行っていた[18]。
著名な出身者
- 政治
- 行政
- 経済
- 法曹
- 学術
- 文化
- 芸能
- その他
- 東京都立上野高等学校教諭・関係者
校歌
この校歌は大正13年(1924年)に第二東京市立中学校として開校した当時に制定された。元は三番まであり現在の二番が三番だったが、旧二番の内容が軍国主義的であったとされ戦後になってから三番は無くなり、旧三番が二番となり現在に至る。
また、作家の森まゆみが地域雑誌『谷根千』90号の表紙裏に同校歌について以下のように書いた[22]。
「驚いた。“負けた側”を讃える校歌があるなんて。徳川の世に殉じて新時代の到来に命を捧げた至誠ゆかりの地。どんなに学びの道が険しかろうと、人生波乱万丈であろうと、仁愛正義」の赤白旗を揚げた彰義隊のように、「人を頼まぬ雄々しい心」で行こう。」
作曲:田村虎蔵(東京高等師範学校助教授・童謡作家/当時本校の音楽教諭)
作詞:藤村作(東京帝国大学名誉教授)
特徴
- 本校は都民に広く学問を学ぶ機会を与えるために、全日制に加えて1924年12月(当初は私設の夜間中学)から2009年3月まで定時制併設、また1948年2月から2006年3月までは通信制も併設されていた。3つの課程が併設されていた高校は当時都内で本校だけであった(1991年4月に新宿山吹高校が開校するまで本校が都立で唯一の通信制)。その後、都立高校統廃合により、定時制は2008年度末に閉課程(台東区の定時制は旧台東商業高校の校舎に新設された浅草高校に統合)し、通信制は2006年度をもって一橋高校に移転された。通信制の移転は新学年から順次行われ、移転中は通学先が一橋高校となったが卒業した学校(卒業証明書の発行元)は上野高校として扱われるため一橋分校と呼ばれた。
- 本校定時制は、本校初代校長の高藤太一郎が関東大震災で被災した生徒を救うために第二東京市立中学校内に1924年12月に私設した「上野二中夜間中学」に起源を発する。当時の他の夜間中学(夜学)と同様、設立当初は正式な中学校とは認められなかったが、次第にその公益性が認められ、1935年3月に東京市に移管され東京市立上野中学校として正式認定された[23]。このような経緯により、同じ校舎内に昼間部が第二東京市立中学校、夜間部が東京市立上野中学校という名称で併設されており、学校名に「上野」が付いたのは実は定時制のほうが先であった。本校にとっては認定や公立移管の有無に関わらず既に夜学の運営実績を持っていたことをもって、全日制と定時制は同じ1924年の創立としている。
- 本校通信制は都内で最も学費の安い高校であった。例えば2004年度の通信制の学費は都立全日制の3分の1以下で、内訳は入学考査料950円、入学料500円、受講料1年生9科目で7290円、生徒会費770円、日本スポーツ振興掛金140円、本校指定体育館シューズ2000円、教科書・学習書2~3万円で、合計年間4~5万円程度であった。また、子育て中の生徒の支援のため乳幼児用の託児室もあり、月2回から3回のスクーリング(登校日)時の託児室利用料はわずか年間600円であった。2003年度には20名の生徒が託児室の利用登録していた。
- 本校通信制は卒業までの在籍年数の上限を設けていなかった。そのため、毎年受講料を納め続けて卒業せずに10年も20年も在籍している生徒がいた。本校通信制を一橋高校に移転する際に上限が6年と定められ、現在はそのような長期在籍生徒はいなくなっている[24]。
- 東京都立上野高等学校は2つ校庭を持っている。一つは校舎の隣にある第一グラウンド。もう一つは道路(公道)を挟んで向かい側にある第二グラウンド。校舎から第2グラウンドへは道路上に架けられた歩道橋を使って行くことができる。その道路上に町丁目境界が敷かれているため、校舎側の第一グラウンドの「台東区上野公園」の住所に対して、第二グラウンドは「台東区池之端4丁目」の住所を持つ。
- 本校には生徒会が無く、文化祭や体育祭となどの学校行事の運営は「有志」が担っている。「有志」には人数制限や選挙等はなく、生徒は立候補すれば誰でもなることができる。[1]
過去の施設
- 東京都立上野高等学校の現校舎の通用門は、旧(前)校舎時の正門であった。旧校舎存在時、正門を入ると、大銀杏が左側に、旧校舎は右側に位置していた。
- 開校時、生徒の体格・体力の向上を教育目標に掲げていたが、グラウンドが狭く十分な運動ができなかった。交渉の結果、埼玉県新座市の平林寺が所有する土地を借りることができ、1928年(昭和3年)に体育園を建設した。寺の周囲には青少年を誘惑するものがなく精神の修養にも良いとされた。体育園の敷地は野火止用水に沿って陣屋通りを挟んで南北に分かれ、北側に合宿所、南側に運動場があった。名目は昭和天皇即位を記念しての建設事業であった(同様の記念事業は日本各地で行われた)ため、当初の正式名は「御大典(ごたいてん)記念第二東京市立中学校体育園」であった。戦後、名称から御大典記念を外し、「上野高校体育園」として引き続き運動会や部活の合宿等に利用していた。しかし寺側との戦前の借地約束の有効性のトラブルから裁判となり、敗訴し1973年(昭和48年)に寺に敷地を返還した。合宿所跡にはその後カエデが多数植えられ、今では平林寺境内の紅葉の名所となっている。
脚注
関連項目
外部リンク