村崎百郎
村崎 百郎(むらさき ひゃくろう、本名:黒田 一郎、1961年 - 2010年7月23日)は、日本の鬼畜系・電波系ライター、編集者、翻訳家、漫画原作者。妻は漫画家の森園みるく。 生まれつき「電波」を受信する特異体質であると自称し、狂気に満ちた特異なキャラクターと豊富な知識で書かれる秀逸かつ猟奇的な文章で「鬼畜系」の地位を築き「電波系」という言葉を定着させた。 概要村崎百郎は『月刊漫画ガロ』(青林堂)1993年10月号の特集「夜、因果者の夜」で特殊漫画家の根本敬によるゴミ漁りのインタビューで「村崎百郎」としてメディアに初登場。その後、世紀末の鬼畜ブーム・悪趣味ブームにおいて「すかしきった日本の文化を下品のどん底に叩き堕とす」ことを目的に1995年より「鬼畜系」を名乗り、この世の腐敗に加速をかけるべく「卑怯&卑劣」をモットーに日本一ゲスで下品なライター活動を始める[1]と宣言[2]。 ゴミ漁りのノウハウを詳細に解説した『鬼畜のススメ』(データハウス)や自身の電波体験を綴った『電波系』(太田出版)といった著書を世に送り出し、1990年代から2000年代にかけて活動した[3][4]。 ペンネームの「村崎百郎」は本名の「黒田一郎」をもじったもので、「村崎」はキチガイ色の「紫」に由来し、「百郎」は本名の「一郎」から鬼畜度を百倍にして付けたという[5]。また、村崎百郎の敬愛する小説家のウィリアム・S・バロウズの短編小説『ムラサキいいヤツやって来る』もペンネームの由来であると村崎は発言している[6]。 生涯生い立ち1961年に北海道で生まれる。小学三年の時に過疎の田舎に転居するが、そこで陰湿ないじめを受ける[7]。村崎によれば小学五年の夏に海で溺れかけた際に宇宙の始まりを目撃し[7][8][9]、その神秘体験によって村崎は大きな解放感と充足感を得るが、同時に凶悪な「何か」が身体に侵入し[10]、鬼畜活動に邁進する使命を帯びたと述べている[8]。この体験以降、村崎はいじめっ子達への凄惨な復讐に明け暮れる荒廃した日々を送っていたとしている[7]。 北海道倶知安高等学校を経て上京し、明治大学文学部を卒業。その後、製粉工場に勤務する傍ら、1987年より出版社のペヨトル工房に勤務し、雑誌『夜想』『銀星倶楽部』の編集を行う。また同社ではウィリアム・S・バロウズ、フィリップ・K・ディック、キャサリン・ダンの単行本の翻訳なども手がけていた[3]。後に共同作業者となる根本敬や青山正明とは、ペヨトル工房の雑誌『銀星倶楽部16』(1992年8月発行)のクローネンバーグ特集で仕事を発注した縁から知り合う[11]。これについて、ペヨトル工房の同僚編集者であった木村重樹は「少なくともクローネンバーグ特集が企画されていなかったら『危ない1号』もあの顔ぶれで世に出ることはなかった」「鬼畜・悪趣味ブームの源泉のひとつは、まさにこの辺りに端を発していたのかもしれない」と回想している[12]。 メディアデビュー漫画雑誌『ガロ』1993年10月号の特集「根本敬や幻の名盤解放同盟/夜、因果者の夜」で根本敬によるインタビューで「村崎百郎」としてメディアに初登場する。この際に工員と名乗り、工員風の似顔絵つきで紹介されている(ペヨトル工房勤務だから「工員」にしたとのこと)。続けて『宝島30』1994年8月号でも根本の連載「根本敬の人生解毒波止場」で33歳の工員としてゴミ漁りのインタビューが掲載された[13]。 その後、世紀末に端を発した鬼畜ブーム・悪趣味ブームの中でライター活動を本格化させ[3]、ブームの到来を宣言した『ユリイカ』1995年4月臨時増刊号「総特集=悪趣味大全」に「ゲスメディアとゲス人間/ワイドショーへの提言」と題した原稿を寄稿、これがライターデビューとなる[14]。 この原稿の中で村崎は「電波」と自称する神や悪魔の声(あるいは他人の妄想や悪意)が生まれつき常時聞こえてくるという「電波系」の特異体質であることを打ち明け、熟練した現在では「電波」に流されることなく感情をうまくコントロール出来ていると語っている。その後も精神病理専門誌『imago』(青土社)に「電波」にまつわるエッセイを複数回執筆する。また幻想文学に傾倒していた村崎はアントナン・アルトーやウィリアム・S・バロウズについての電波評論を『ユリイカ』(青土社)に度々寄稿しており、それらの原稿は没後『村崎百郎の本』(アスペクト)に再録された。 鬼畜ブーム到来1995年より青山正明率いる東京公司編集の伝説的な鬼畜系ムック『危ない1号』(データハウス)に参加し、ゴミ漁りルポ「ダスト・ハンティング=霊的ゴミ漁り」「勝手にゴミュニケーション」を寄稿、一躍同誌の看板作家となる。 その後、青山正明のアドバイスで紫頭巾の覆面キャラクターを形作り、雑誌『SPA!』1995年11月1日号の特集「電波系な人々大研究―巫女の神がかりからウィリアム・バロウズ、犬と会話できる異能者まで」でメディアに初登場する[11]。のちに本記事をもとに膨大量の語り下ろし談話を加味して加筆訂正を行った単行本『電波系』(太田出版)を根本敬との共著で1996年9月に上梓する。 1996年1月10日には新宿ロフトプラスワンで20世紀末最悪のトークライブ「鬼畜ナイト」を主宰する。このイベントは『危ない1号』第2巻「キ印良品」刊行記念、および東京公司新年会、並びに大麻取締法違反で昨年保釈されたばかりの青山正明を励ます会を兼ねたもので、村崎を中心に青山正明、吉永嘉明、柳下毅一郎、根本敬、佐川一政、夏原武、釣崎清隆、宇川直宏、石丸元章、クーロン黒沢など30人以上の鬼畜系文化人が登壇し、キャッチコピーにある通り「誰もがいたたまれない気分に浸れる悪夢のトークセッション」を繰り広げた、伝説のトークセッションとなった。このイベントの模様は同年8月に『鬼畜ナイト 新宿でいちばんイヤ~な夜』(データハウス)として書籍化され、7万部を売り上げるヒットを記録する[15]。また、この成功は創業まもない新宿ロフトプラスワンの名を世に広く知らしめるきっかけとなった。 1996年7月には、村崎百郎の処女単行本にして唯一の単著『鬼畜のススメ 世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!! みんなで楽しいゴミ漁り』(データハウス/東京公司)が青山正明の監修で刊行された[16]。著者略歴では、1961年シベリア生まれ。最終学歴は中卒。1980年に上京。凶悪で暴力的な性格が災いし、陰惨な傷害事件をくり返しながら多くの工場や工事現場を転々とする。1995年より「すかしきった日本の文化を下品のどん底に叩き堕とす」ために「鬼畜系」を名乗り、この世の腐敗に加速をかけるべく「卑怯&卑劣」をモットーに日本一ゲスで下品なライター活動をはじめるとしていた[1]。なお『鬼畜のススメ』は“鬼畜的生き方の入門書”として、ゴミ漁りのノウハウを詳細に解説している本であり、村崎がゴミ集積場から日々持ち帰った種々のゴミを通して人間の生活や精神構造、更には思想までをも事細かに分析する様子が綴られている。
本書では、他人のゴミを漁ってプライバシーを暴き出すダスト・ハンティング(霊的ゴミ漁り)が紹介されている。村崎はまえがきで本書のテーマを次のように語った。
『鬼畜のススメ』刊行の2ヶ月後、村崎百郎は「電波系」にまつわる体系的な考察を行った単行本『電波系』(太田出版)を特殊漫画家の根本敬との共著で1996年9月に上梓した。これは『SPA!』1995年11月1日号の特集「電波系な人々大研究──巫女の神がかりからウィリアム・バロウズ、犬と会話できる異能者まで」に掲載された対談記事をもとに、膨大量の語り下ろし談話を加味して単行本化したものである。村崎は『電波系』のあとがきでも次のように語っている。「だから、もう電波に対してそんなに真剣に悩まなくてもいいんだ。好きに生きろよ」[17]
悪趣味ブームの他のライターは記事は鬼畜だが、ライター本人はまともというスタンスであったが、村崎は自身も異常であるというキャラクターに則りつつ、執筆活動を行っていたのが特徴であった[3]。公の場に登場する際や書籍などに写真が掲載される際には、常に頭部を全て覆う紫色の頭巾(片目の部分に穴が開いている)を被って素顔を隠していた[3]。自称していたプロフィールについても、真偽のほどや詳細は不詳となっていたが、2001年に出版社ペヨトル工房の回顧録『ペヨトル興亡史─ボクが出版をやめたわけ』に村崎百郎の名義で寄稿し、週1回のボランティアを経てペヨトル工房のアルバイトになり、さらに同社の社員になっていたことを自ら明かしていた[4]。 妻の森園みるくは、村崎が原作を担当した漫画の共同執筆を行っていたほか、マネージメントや資料集め、食事などのサポートをしていた。生前の村崎は『危ない28号』の連載「世紀末鬼畜放談」において、森園とは同棲しており内縁の妻だとしていたが「村崎百郎」のパブリックイメージに反するとして結婚していることは認めていなかった。2人が結婚したとする記事には抗議して、セックスだけの関係と訂正するように要求していた[3][18]。 2000年からはアスキーの3DCG専門雑誌『ウルトラグラフィックス』で唐沢俊一との時事放談『社会派くんがゆく!』の連載を開始。同誌休刊後はアスペクトのウェブサイトに移籍し、2010年7月15日まで全102回にわたり連載された。しかし、この連載は村崎百郎の仕事としては評価が低く、ライターのばるぼらは「鬼畜・悪趣味が飽きられてリアル・実話誌系に移行していった1990年代から2000年代への流れとシンクロした内容だが、村崎の発言は常に挑発的で鬼畜を軸としているものの、ゲスな口調を除けば、回を重ねるごとに倫理的なものになっている。インターネットの普及によるゲスな妄言の大衆化、現実が妄想を追い越したような最低な事件の数々が、村崎を相対的にまともに見せてしまっている」と解説していた[19]。 刺殺2010年7月23日午後5時頃、村崎は読者を名乗る32歳の男性に東京都練馬区羽沢の自宅で48ヶ所を滅多刺しにされ殺害された[3][20]。48歳没。自ら警察に通報して逮捕された容疑者は精神病により通院中で[21]、精神鑑定の結果、統合失調症と診断され不起訴となった[22]。 練馬警察署の調べによると、当初犯人は根本敬を殺害する予定だったが根本が不在だったため、標的を変更して『電波系』(太田出版)の共同執筆者であった村崎の自宅に向かったという[23]。なお犯行時に妻の森園みるくは食事に出かけており、難を逃れている[8]。 不可解なことに事件の一週間前から村崎は「もう俺殺されるから。きちがいに。電話も盗聴されてるから」「俺はこの部屋でキチガイに包丁で殺される、ごめん」と森園や周囲の人間に語るなど自身の死を予言しており[8][24][25]、それまで全く興味のなかった生命保険にも事件直前に加入していたことが後に判明している[8]。また村崎が死の直前まで使っていた仕事用のパソコンには「ミズの中からさざ波を立てて移動しながら浮かび上がる十字架のイエス像」という文章が遺されていたという[26]。 事件報道で本名が「黒田一郎」であることや[20]、実際は北海道出身で、最終学歴は明治大学文学部卒業であり、ペヨトル工房に勤務していたことが公になった[3]。ちなみに『危ない1号』第2巻の著者紹介では、黒田一郎と村崎百郎の両名が別々に記載されており、この中で黒田は「61年、北海道生まれ、編集者兼ライター。芸術や文学の中の、極めて特殊な分野の編集を長年地道に行ってきた。性格は温厚で人当たりも良く『誠実編集』をモットーにコツコツとまじめに働くタイプ」と紹介されているのに対し、村崎は「61年、シベリア生まれ。工員兼ライター。鬼畜系にして、数千チャンネルの電波を受信する電波系のキ○ガイ」と紹介されていた。 没後2014年4月よりデータハウスの鵜野義嗣社長が運営している静岡県伊東市の博物館『まぼろし博覧会』内に常設展示「村崎百郎館」が開設された。この施設では村崎が生前集めた数多くのゴミなどが展示されている[27]。また村崎が集めた膨大な蔵書類は森園によって一部が明治大学図書館に寄贈された[26]。 村崎の死後、森園の周辺では不可解な心霊現象が度々起こり[26][28]、7回忌にあたる2016年7月23日には村崎が生前使っていたノートパソコンに村崎の目のような模様が浮かんでいたという[8][24][26]。森園はこの出来事を切っ掛けに事件前後の状況を漫画化した実録エッセイ漫画『私の夫はある日突然殺された』を2017年に発表し、電子書籍配信サイト『めちゃコミック』『Renta!』より配信中である。 10回忌を迎えた2020年7月23日には長らく絶版になっていた村崎の処女作にして唯一の単著である『鬼畜のススメ』が電子書籍として復刊された。 2022年8月24日、鴇田義晴の論考「村崎百郎論―90年代サブカルチャーと倫理」が、すばるクリティーク賞を受賞したことを受けて、ライブストリーミング放送局『DOMMUNE』で5時間特集『鬼畜系カルチャー大検証! 村崎百郎が蘇る!』が放送された[29]。出演者は、森園みるく、鴇田義晴、宇川直宏、ばるぼら、根本敬、中原昌也、釣崎清隆、黒田有南、虫塚虫蔵、好事家ジュネ、ケロッピー前田。番組内では、村崎の生前の肉声や、村崎の十三回忌に恐山でイタコの口寄せを行った際に「自分の血が飛び散ってるのを見て、とても綺麗に見えたんだ」とイタコが述べた音声も放送された。それ以外には、宇川直宏や虫塚虫蔵によって19世紀から始まる鬼畜系サブカルチャー史の歴史的総括が試みられたほか、釣崎清隆を交えて混迷をきわめるウクライナ情勢にも言及された。番組の最後では、伝説のロックバンド「ガセネタ」の伝記的小説『ガセネタの荒野』(大里俊晴)にある「古本屋で百円で売っている本のようなものであってほしい」という文章が鴇田によって引用され、ジャンクさゆえに一歩引いて村崎を捉えるべきとする批評精神が語られた。それと同時に鴇田は、ウィリアム・バロウズの評伝本『たかがバロウズ本。』(山形浩生)を援用し、村崎への敬愛と共に「たかが、村崎百郎。されど、村崎百郎。」と形容して番組は締め括られた[30]。 著書単著
共著
電子書籍
漫画原作以下のすべて、森園みるく作画
雑誌連載・寄稿・インタビュー
関連人物
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
ニュースサイト
追悼文
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