村山槐多
村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1919年〈大正8年〉2月20日)は、明治・大正時代の日本の洋画家で、詩人、作家でもある。神奈川県橘樹郡神奈川町(現在の横浜市生まれ、京都市上京区育ち。母方の従兄に山本鼎(画家)と嶺田丘造(官僚)、はとこに黒柳朝(随筆家)がいる。 みなぎる生命力を退廃的・破滅的雰囲気を纏わせながら絵画に表した[3]。ガランス(深い茜色、やや沈んだ赤色)を好んで使ったことでも知られる[3]。 生涯槐多は、愛知県額田郡岡崎町にて小学校教諭・村山谷助とその妻・たまの長男として生まれた。岡崎町はかつての岡崎城の城下町で、現在の岡崎市。従来の出生地の定説は、父親が教員を務めていたという神奈川県橘樹郡神奈川町(現在の横浜市神奈川区)であったが[2][4]、岡崎市美術博物館の学芸員が親族への聞き取りと岡崎市役所に残された槐多の出生届資料を確認したうえで、2011年(平成23年)12月に正しい情報を公表した[5]。岡崎町は母・たまの出身地で[6]、谷助とたまが婚姻届を出したのは槐多が生まれる2週間前であった[7]。母・たまは結婚前に森鷗外家で女中奉公をしており、村山家では鴎外が「槐多」の名付け親になったと言い伝えられている[8][* 1]。 槐多は10代からボードレールやランボーの作品を読み耽り、詩作もよくした。その早熟さ、デカダン(退廃)的な生活、貧しさや失恋による心の痛みなどにより困窮した。さらに結核性肺炎を患った。また、同じ年に20代前半で夭折した点で、同じ洋画家の関根正二とよく比較されるが、2人の作風は全く異なっている。画家自身のほとばしる情念や不安を反映した槐多の人物像は、器用ではないが一度見たら忘れられない強烈な印象を残すものである。 1919年(大正8年)2月、槐多は当時猛威を振るっていたスペイン風邪に罹って寝込んでしまう。2月19日夜9時頃、槐多はみぞれ混じりの嵐の中を外に飛び出し、日の改まった20日午前2時頃、畑で倒れているのを発見された。槐多は失恋した女性の名などしきりにうわごとを言っていたが、午前2時30分に息を引き取った。まだ22歳の若さであった。 高村光太郎は、1935年(昭和10年)になって「強くて悲しい火だるま槐多」などと詩に詠んで生き急いだ若者を哀悼している[9][3]。日本美術院の研究生時代から槐多青年は高村の工房に出入りしていた。以下に原文を記載する。
歴史ここでは、当人の略歴を主体にしながら、死後の出来事や影響などについても記述する。 略歴その他1896年(明治29年)9月15日、愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)にて、小学校教諭・村山谷助とその妻・たまの長男として生まれる。 1897年(明治30年)某月、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市中心部の一角)へ一家で転居。 1900年(明治33年)某月、4歳の年、京都市上京区寺町通荒神口上ル宮垣町58番地[* 2]へ一家で転居。物心をついて間もないこの頃以降は旧制中学校(現代の高等学校に相当)卒業までを京都で暮らす。 1903年(明治36年)3月31日、銅駝保育所(現・京都市立銅駝幼稚園)を卒業[10]。4月1日、京都市立春日小学校に入学[要出典]。 1909年(明治42年)3月31日、京都府師範学校附属小学校(現・京都教育大学附属京都小中学校)を卒業。4月1日、京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)へ進学。 1910年(明治43年)、水練伊勢歡海流奥傳5里免許取得[10]。7月28日[11] 母方の従兄である画家・山本鼎が渡欧の途次槐多の家(※山本鼎の年譜での住所は上京区寺町通今出川上ル5丁目西入ル桜木町1番地になっていて[11]、1900年の住所とは違っている)に滞在し[12][* 3]、槐多に画才を見出し[12]、油彩道具一式を与えるなどした[11][4]。このようなことをきっかけとして槐多は次第に文学や美術を志すようになった[4][* 4]。一方、父は槐多の農業大学への進学を希望していたため、父子対立が始まる。槐多はパリに居る鼎に作品を送り、鼎は信州に住む自身の両親に槐多の父を説得するよう依頼し始める[12]。 1911年(明治44年)中学3年の槐多は、自宅の土蔵で詩作に熱中し、『强盗』、『銅貨』、『孔雀石』、『アルカロイド』、『靑色廢園』、『新生』などの回覧雑誌を作成し[13]、原稿が集まらないときは、一人で一冊分を書いたりした[12]。 1912年(明治45年・大正元年)、1級下のY少年にプラトニックな恋をする。この頃、ボードレールやランボーなどを愛読し[12]、パルナシアンを自任する[10]。 1913年(大正2年)、恋愛体験が劇詩「鐡の童子」2章、戯曲「惡女時期」3幕「銅の緑靑」1幕、その他京言葉の詩を生む。また、木版画、コマ画などを制作[10][12]。 1914年(大正3年)キュービズム風の水彩画を唐紙に描き、その他の版画を加えて展覧会を開く。これが賞讃され、一部は記念として学校に保存された[12]。その中に愛人をひそかに模した『光の王子』が含まれていた[10]。3月31日、京都府立第一中学校を卒業[4]。5月、上京する途中[4]、画家を志すきっかけを作ってくれた[4]従兄の山本鼎がこのころ暮らしていた長野県小県郡神川村大屋(現・上田市大屋[* 5])の山本家(鼎の父が1898年〈明治31年〉から医院を開いていた[11])に立ち寄って1か月ほど滞在し[4]、多くのスケッチや水彩画を残す[4]。『川のある風景』もこの時の作品と考えられる[4][* 6]。大阪朝日新聞に「繪馬堂を仰ぎて」の一文を寄稿し、京都附録版に三日間掲載された。文章内容はナショナル・ギャラリーの建設を提唱するものであった[10][12]。 6月25日、ようやく上京し、7月、槐多のことを鼎に依託されて帰国した小杉未醒(のちの放庵)邸に寄宿する[4][12]。9月、日本美術院研究生となり、小杉邸から通い始める[4][10]。10月、水彩画『植物園の木』、『庭園の少女[* 7]』、『田端の崖』、『川沿ひの道』を第1回二科展に出品し[10]、人生初の入選を果たす[4]。 1915年(大正4年)3月、美術院第1回習作展に『六本の手ある女』ほか油絵数点出品[12]。『尿する裸僧』25号など多くを制作する[12]。しかし、大作『女子等と癩者』は未完成に終わる[10]。10月、“第2回日本美術院展覧会”(※日本美術院再興第2回展覧会のことか。そうであれば10月11日開会)で『カンナと少女』が院賞を受賞。絵画製作に熱中する一方、かなりの貧困状態となる[12]。長野に旅をし、自然に相対して、素描の勉強をする。同月14日より「信州日記 製作と思考」を記す[14]。「魔猿傳」を『武侠世界』へ送り、これを江戶川亂步が「わが國初めての本格的スリラー」と賞讃した[12]。この年、両親が東京へ移住し、父子の不和が深刻となる[12]。 1916年(大正5年)春、小杉邸を離れ独居する[10]。美術院第2回習作展に素描4点を出品[10]。根津裏通りの二階へ転居し、ここでモデルのお玉さんへの恋愛が始まるが、失恋し、5月頃山国へ放浪の旅に出[10]、飛騨山中で炭焼きに救われたりする[12]。同月郷里である三河の岡崎で徴兵検査を受けたのち、帰京[10]。油絵『猿と女』100号を製作する[10]。7月山崎省三を旅先である伊豆大島に訪ねひと夏を過ごす。9月山崎と根津八重垣町に下宿する。東京における生活は、午前は研究所、午後は焼絵をした工場で過ごした[* 8]。この年は作画数多く、かつ酒を愛した[10]。 1917年(大正6年)4月、美術院第3回習作展に油絵『湖水と女』と素描『娘のコスチウム』を出品し、美術院金賞を受ける[10]。この頃、コンクールにおいて数度賞金を受けた[10]。夏、山崎と再び大島旅行。帰京ののち、四谷に転居[12]。この頃、貧しい中で「ワレンス」夫人あるいは「モナリザ」と綽名する落魄した名妓の生活を援助し[* 9]、その女性の美のクリエーションに酔う[10]。酒量増加する[10]。9月、美術院第4回展覧会で『乞食と女』を出品する。展覧会の或る日、泥酔して下谷署に一夜厄介になったのち、署長を展覧会場に見出し、『乞食と女』を紹介することとなる[10]。10月院賞を受賞。院友に推される[12]。ここで、寝るのに蒲団さえない貧窮の中で、酒を断ち、仕事への集中を決心する[12]。12月、山崎と三崎へ無銭旅行。葉山署の厄介になる[10]。 1918年(大正7年)1月、山崎と別れて信州へ旅立つはずが、亀戸天神付近の「すし屋」に10日ほど厄介になる[10]。4月、美術院第4回習作展覧会に『樹木』、『自畫像』、『九十九里の濱』、『男の習作』他2点を出品し、美術院賞金(甲種)を受ける[10]。この頃大作『風船玉をつく女』が未完成に終わる[10]。山岳會主催展覧会に『秩父風景』2点を出品する[10]。同月、根津六角堂の中で、山崎と住んでいたが、中旬、結核性肺炎にかかる[10]。8月病後の衰弱の中で『煙草をのむ男』100号を製作し、美術院第5回展覧会に出品するも落選[12]。9月千葉の九十九里浜に転地療養する[10]。当時の日記には、自殺の念の頻繁に起こることを記しており、死の予感と戦う[12]。10月房州波太地方で流浪し、自殺を試み、思いとどまることを繰り返していたが[10]、中旬、漁師が、多量の飲酒ののち、雨中で岩礁に血を吐いて倒れている槐多を発見[10][12]。11月、清水賞太郎より毎月30円ずつの奨学金が出されることとなり、代々木本村に初めて一家を借りて住む。これは鐘下山房と名付けられた[12][* 10]。制作意欲が死と競うものの如く苛烈[12]。 1919年(大正8年)2月1日、美術院第5回習作展覧会に『松と榎』『雪の次の日』『松の群』『自画像』『松と家』『大島風景』『某侯爵邸遠望』『代々木の一部』を出品し、美術院賞乙賞を受賞[* 11]。2月18日 、流行性感冒(スペイン風邪)に襲われ病臥しているはずが、雪まじりの雨の激しい中、夜になって姿が見えないのに友人らが気づき、嵐の中を捜索。草むらの中で高熱にあえぐ槐多を深夜2時頃発見。同日、医師に注射を打たれながら、槐多は中学時代のY少年のことや、お玉さんの名を口にした。また「柿の木7本、松3本」とか、直線と曲線の画法について口走った[12]。2月20日午前2時、「白いコスモス」、「飛行船のものうき光」という謎めいた数語を残し[12]、東京府豊多摩郡代々幡町(現・東京都渋谷区代々木)の「鐘下山房」において[15]、流行性感冒による結核性肺炎で急死する。22歳没。戒名は、清光院浄譽槐多居士。石井鶴三によりデスマスクがとられた。同月28日、谷中功徳寺に埋葬[12]。 1920年(大正9年)6月雑司ヶ谷共同墓地に仮埋葬[12]。同月20日『槐多の歌へる』(アルス社)が出版された[* 12]。10月、友人らにより墓碑建立[12]。1921年(大正10年)4月11日、『槐多の歌へる其の後及び槐多の話』(アルス社)が出版された[* 13]。11月18日、『槐多画集』(アルス社)が出版された[* 14]。1935年(昭和10年)高村光太郎が哀悼の詩『村山槐多』を詠む。 2011年(平成23年)12月、槐多の出生地の誤りが判明し、改められる。2018年(平成30年)秋、約100年間行方不明になっていた木炭画『信州風景』2枚が京都市内で見つかる[16]。2019年(平成31年)3月27日 閉館を決めた信濃デッサン館(現・KAITA EPITAPH 残照館)館長・窪島誠一郎が館蔵品357点を「信濃デッサン館コレクション」として長野県に寄贈[17]。村山槐多の作品多数がその中に含まれている。4月24日油彩画やパステル画など未公開作品計128点が京都府立第一中学校時代(現・洛北高等学校)の同級生や先生の家から見つかったことを、この日、おかざき世界子ども美術博物館が発表する[9][18]。2021年(令和3年)長野県立美術館の改装開館により[17]、長野県が贈与された信濃デッサン館コレクションはここに収蔵・展示される[17]。 作品絵画槐多は、夭折した画家としては比較的多くの作品を残しており、現在確認されている油彩作品は41点、デッサン・水彩・パステルなどの紙に描かれた作品は約150点ほどである[19]。全体として決して技巧的ではないものの、原色を多用した、けばけばしいとさえいえる筆致を特徴としている。『庭園の少女』『バラの少女』『湖水と女』など、よく女性を描いている。また、『朱の風景』『信州風景』『松の群』などのように自然の風景も好んで描き、油彩作品の内23点が風景画である。自画像は油彩以外も含めると12点ほどあり、短い画業を踏まえると自画像を多く描いた画家と言える。一般に最も槐多らしい作品とは、自身がアニマニズムと名付けた作品群である。特に合掌しながら地べたに置いた托鉢の器に向けて立ち小便をする全裸の僧をガランス(深い茜色)を主調として描いた『尿する裸僧』などは、見る者に異様な情熱を感じさせるとして知られている。彩色しない木炭画も描いている[20]。 もっとも、槐多は画家としての活動期間が5年足らずと短いため、作品数は絶対的に少ない。現在所在不明な作品もあり、『真実の眼―ガランスの夢 村山槐多全作品集』でも参考図版の掲載にとどまっている。そのこともあって、現存する作品は相応の高値で商取引される可能性を孕んでおり、テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』に槐多の作品が登場した際には3000万円の評価額が付けられたこともある[21]。しかもこれはオークションでのスタート金額としての評価であり、「実際には億単位になる可能性もある」との言及もあった[21]。 2018年(平成30年)の秋、約100年間行方不明になっていた木炭画『信州風景』2枚が京都市内で見つかった[16]。槐多の日記には、信州で木炭画50枚を描くという計画が記されており、そのうちの2枚と考えられている[16]。また、2019年(平成31年)4月24日には、油彩画やパステル画など未公開作品計128点が京都府立第一中学校時代(現・洛北高等学校)の同級生や先生の家から新たに見つかったことを、おかざき世界子ども美術博物館が発表した。同年6月1日から同館と上田市立美術館で開催される没後百年記念展覧会で初公開され[9][18]、この展覧会図録として全作品集が刊行された[22]。 絵画の一覧
詩詩集『槐多の歌へる』は槐多の死後、友人たちによって編集、出版された。収録された作品は、絵と同様、技巧的というよりも若々しい情熱と率直さに満ちたものである。草野心平の詩人としての成り立ちに大きな影響を与えているが、一般的には、その絵画と比べると一段低く評価されている。 『村山槐多 EPITAPH』(書肆林檎舎)が2019年に刊行された[35]。 小説未完の作品も多いが、短編『悪魔の舌』は幻想・怪奇小説のアンソロジーなどに多く収載されている(鮎川哲也編『怪奇探偵小説集』など)。 『悪魔の舌』を含む槐多の文学作品を集めたほか、津原泰水が槐多の生涯を描いた小説を加えた『村山槐多耽美怪奇全集』(学研M文庫)が2002年に刊行されている [36]。 その他両性愛者でもあり、少年に宛てたラブレターがKAITA EPITAPH 残照館(旧・信濃デッサン館)に資料として残されている[要出典]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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