寺尾 友美(てらお ゆみ、1973年1月23日 - )は、日本の元アイドル歌手。本名は寺尾 由美(旧姓、読みは同じ)[1][2]。宮崎県生まれ、埼玉県育ち。血液型はA型。
来歴
生まれは宮崎県であるが、父がいわゆる転勤族であったため幼少期より転居が多かった。幼稚園入園前に鹿児島県、幼稚園児の時に埼玉県越谷市、小学1年生の時に名古屋市、小学3年生の時に相模原市へ移り、中学1年生の3学期から再び越谷市に戻る[3]。埼玉県立越ヶ谷高等学校卒業[3]。
1988年の夏、友達と出かけた原宿のラフォーレ原宿前でフロム・サイドプロモーション勤務のマネージャーにスカウトされる[3]。1989年3月に雑誌『Up to Boy』のモデルとしてデビュー。
1990年4月25日、『Touch Me』で歌手デビュー。高校生時代は、地元・越谷から東武伊勢崎線などを利用して仕事先に通っていた[4]。
アイドル歌手時代の公式プロフィールは、身長・157cm、スリーサイズはB84・W57・H86。あどけなさの残る童顔に対し、グラマラスなプロポーションのギャップはデビュー当初から注目され、グラビアアイドルとしても活躍していた[注釈 1]。
1994年頃から芸能活動を縮小。1995年に週刊誌のコラム連載を持つが短期間で終了した。その後、1歳年上のミュージシャンと結婚[注釈 2]。東京近郊で夫のライブがある時には寺尾も度々顔を見せていた。結婚を機に芸能界から引退した。しかし、二児を設けるも2018年に離婚した。
人物
きょうだいは姉が1人いる[5]。姉の影響でニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックのファンになり、洋楽好きになったことがある[6]。芸能界引退後、美容セラピストとしてサロンを経営。
エピソード
小学3年生から高校卒業時までバスケットボール部に所属[3]しており、部活動で培われた基礎体力には自信があるという[注釈 3]。
言い間違いや言葉足らずな一面もあり「高校卒業後に女の子は加速したように色っぽくなる」といった趣旨の雑談の中で寺尾は「好きな人でないと付き合ったりしない」と交際について発言しようとしたところを「好きな人でないとしない」と発言してしまい、性交渉を連想させる誤解を招いた。そこから「加速→ターボ」と連想されて『ターボ寺尾』とあだ名をつけられたこともある[3]。
主な出演
テレビ番組
ラジオ番組
舞台
ミュージカル
オリジナルビデオ他
CM
その他
作品
音楽
シングル
- Touch Me(1990年4月25日、バップ)※アイシン・エィ・ダブリュCMソング
- (c/w)ふりむきたくて
- わからない(1990年7月21日、バップ)
- (c/w)ジグザグの恋(『美味しんぼ』「下町の温もり」挿入歌)
- キミの夢の味方(1991年5月21日、バップ)
- (c/w)パンプスは似合わない
- 神様がくれたLonely Heart(1991年10月21日、バップ)
- (c/w)微笑みをたばねて
- 好きだったのに(1992年10月21日、Continental)
- (c/w)メリー・メリークリスマス
アルバム
オリジナル・アルバム
- CUE-T(1991年7月21日、バップ)
- ギグルス(1991年12月5日、バップ)
- ずっと逢いたかった(1992年12月1日、Continental)
企画アルバム
写真集
- 発行・ワニブックス
- 撮影・井ノ元浩二
- 発行・学研
- 撮影・大山文彦
- 発行・スコラ
- 撮影・渡辺達生
- 発行・英知出版
- 撮影・井ノ元浩二
CD-ROM写真集
- 発行・INNER BRAIN
- 撮影・渡辺達生
PHOTO CD
- 触れて、モノローグ - Touch my colors
- 発行・NEC 842-5002
ビデオ
- Pich Pachi[7](1992年6月15日)
- 発行・大陸書房 IV-1107
- 発行・テイチク TEVA-28025(ミュージック・ビデオ)
- 収録曲・『好きだったのに』/『メリーメリークリスマス』
- 発行・ポニーキャニオン
- レーザーディスク(PCLP-00483)としても発売されていた。
- 発行・英知出版 BEV88
- 発行・英知出版
DVD
- Legend Gold Pichi Pachi 寺尾友美[7](2010年7月16日)
- 販売元:日本メディアサプライ
- ASIN: B003P7NQYM
- ※イメージビデオ「PichiPachi」及び写真集「WARNING」撮影時に同時制作されたビデオを再編集した作品。
雑誌連載
関連項目
脚注
出典
注釈
- ^ 水着のみに及ばずランジェリー姿、小物でバストトップを隠す大胆なセクシーショットなども披露していた。
- ^ 夫は自身のバンド活動の他に及川光博のライブツアーメンバー(バックバンド)として参加することもあるギタリスト。
- ^ 高校2年生の体育の授業で行われた1000m走完走後、他の生徒がバテていたのに対して寺尾だけが平然とした顔をしていたことから「タフネス寺尾」というあだ名をつけられた。本人は「本当は自分も疲れていたのにたまたま顔に出なかっただけ」と述べている。高校3年生夏までこのあだ名で呼ばれたが「今までで一番嫌いなあだ名」と話していたことがある[3]。過去には「男子に対して熱しやすく冷めやすい」「重い物を動かせる」ことから『鉄の女(アイアンガール)』とあだ名をつけられたこともある。また、1990年夏に金沢市で行われた新曲キャンペーンでステージに立った際、極度の緊張から歌詞も振付も忘れて放心状態になった。ステージ上で微動だにせず固まってしまい、「まるで地蔵だ」とスタッフから揶揄され『寺尾地蔵』という不名誉なあだ名をつけられたこともある[3]。