安徽省 (中華民国)
安徽省(あんきしょう)は、中華民国に存在した省。現在の中華人民共和国安徽省の大部分に相当する。 管轄区域東は江蘇省、西は河南省及び湖北省、北は山東省、南は浙江省及び江西省に接していた。 省政府沿革1911年(宣統3年)、辛亥革命が発生すると、11月8日に安徽省は独立を宣言、都督府都督を自ら設置、12月12日に開催された省臨時議会で孫毓筠が都督に選出され、12月21日には正式に安徽軍政府を設置している。この時期別に組織された軍政分府には11月10日に成立した廬州軍政分府(翌年3月解体)や11月29日に成立した蕪湖軍政分府などがある。 1912年(民国元年)、中華民国が成立すると省民政長官として民政長が設置され、下部に民政、財政などの司が設置された。1914年(民国3年)5月23日には民政長を巡按使と改称、更に1916年(民国5年)7月6日に省長と改称されている。 1927年(明国16年)3月25日、国民党中央政治会議第は安徽省政務委員会の設置を決定、同月30日には各委員の任命が行われたが、同月27日、蔣介石は国民革命軍総司令のメイギで別に政務委員会の設置を行っている。4月に発生した上海クーデター以降、安徽省は南京国民政府に帰属した。 7月25日、南京国民党中央政治会議は安徽省の政務委員会を省政府委員会に改編、8月10日には省政府が設置されている。1936年(民国25年)6月、行政院により全省に10区の行政督察区が設置され、省政府の補助機関として運営されるようになった。日中戦争が勃発すると1937年(民国26年)末に山東省は日本軍により占拠され、中華民国臨時政府、続いて汪兆銘政権の華北政務委員会により行政運営がされるようになったが、国民政府も亡命政府として安徽省政府を維持していた。 1945年(民国34年)8月、日本軍の敗北と汪兆銘政権の崩壊により国民政府の行政権が回復、10月には山東省政府委員会が新たに組織された。1949年(民国38年)4月、共産党軍は省全域を占拠、中華民国は実効支配権を喪失している。 省会1912年(民国元年)から1945年(民国34年)11月までは基本的に省会は懐寧県に設置された。北京政府時代には地方軍閥の跋扈により蚌埠県に臨時省会が設置されたこともあった[1]。日中戦争中は六安県(1938年1月13日から6月26日)、立煌県(1938年6月26日から1945年8月)に省政府が疎開している[1]。1945年(民国34年)11月以降は合肥県に設置された。 歴代省長
行政区画道制1913年(民国2年)1月8日、北京政府が発布した『劃一令』により皖北道が設置されたが、管轄地域について具体的に規定されず[2]、1914年(民国3年)5月に廃止された[3]。 同月、『道官制』により安慶、蕪湖、淮泗の3道が設置されたが[3]、1927年(民国16年)の北伐軍の進駐により道制は廃止された。 県級行政区画中華人民共和国成立直前の管轄県は下記の1市64県。(50音順)
行政督察区1932年(民国21年)4月、呉忠信が安徽省主席に就任した際に試行された首席県長制が行政督察区の前身である。全省に10区を設置、区内の県長より主席県長1名を選出し、省政府との連絡業務を務めたが、同年8月に行政督察区制が施行されると廃止されている。 同年8月、『行政督察区暫行条例』により全省を10区に分割(1937年に8区に改編)された。日中戦争が勃発すると日本軍により津浦や淮南線沿線地域が占領されると第2区の行政機能が停止され第5区、8区、9区に編入されるなど、戦況に応じて行政区画の変更が行われたが、この時期の山東省は中華民国臨時政府とその後の華北政務委員会の実効支配を受けていたために実際に施行されたものではない。 1945年(民国34年)8月、日本の敗戦と汪兆銘政権の崩壊により中華民国が実効支配権を回復、省内を10区に再編し、1949年(民国38年)の中華人民共和国建国まで沿襲された。 脚注関連項目
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