鄭士琦

鄭士琦
プロフィール
出生: 1873年同治12年)
死去: 1935年民国24年)
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 安徽省鳳陽府定遠県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 鄭士琦
簡体字 郑士琦
拼音 Zhèng Shìqí
ラテン字 Cheng Shih-ch'i
和名表記: てい しき
発音転記: ヂョン シーチー
テンプレートを表示

鄭 士琦(てい しき)は清末民初の北洋系軍人で、北京政府安徽派に属した。雲卿

事跡

安徽陸軍随営学堂を卒業し、済南の北洋第5鎮の隊官(中隊長)、管帯(大隊長)を歴任した。

中華民国成立後の1912年民国元年9月、部隊単位の名称変更により同部隊は中央陸軍第5師に改称され、翌1913年(民国2年)、陸軍第5師砲兵第5団団長に任命される。同年7月の二次革命(第二革命)では、徐州で決起した冷遹中国語版の討袁軍第3師討伐のため、雨の中を歩隊一個営、砲隊一個連を率いて江蘇省との省境の微山県韓荘鎮中国語版利国駅中国語版で激戦を繰り広げる。やがて同じく第5師の潘鴻鈞中国語版の第10旅第19団、張勲の武衛前軍も到着し、討袁軍を退けた[1][2]

1914年(民国3年)8月、第5師第10旅旅長に昇進した。1919年(民国8年)5月、署陸軍第2師二等参謀官に任命され、後に第5師師長に昇進した。

1923年(民国12年)1月、済威将軍の位を授与される。同年10月、山東督軍(後に督理、督弁)に任命された。1925年(民国14年)、奉天派張宗昌の圧力に屈し、4月に安徽督軍に転任した。しかし実際には就任することが出来ず、8月に下野した。

以後、天津に寓居し、1935年(民国24年)病没。享年63。

脚注

  1. ^ 微山縣志,山东人民出版社,1997年,第882页
  2. ^ 历史年鉴: 一部记录了100年来历史洗礼的经典收藏丛书. 年鉴, 1849-1950(13),吉林文史出版社,2006年,第24页

参考文献

  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
田中玉
山東督軍
1923年10月 - 1924年
次代
(督理に改称)
先代
(督軍から改称)
山東督理
1924年 - 1925年1月
次代
(督弁に改称)
先代
(督理から改称)
山東督弁
1925年1月 - 4月
次代
張宗昌
先代
王揖唐
安徽督弁(赴任せず)
1925年4月 - 8月
次代
姜登選