宇喜田町
宇喜田町(うきたちょう)は、東京都江戸川区の町名。丁目の設定がない単独町名である。住居表示未実施区域。 地域江戸川区の南西部、葛西地域の北端部に位置する町である。面積は0.2223平方kmで、区内で41番目に小さな町である[5]。隣接する地域は北は新川を挟んで対岸に船堀三・六丁目、東は北葛西四・五丁目、南は北葛西三丁目、西は北葛西一丁目。 住宅街宇喜田町の人口は区内で35番目であり、1786世帯、4313人(2011年1月)が在住している。大型の団地はないが一戸建ての住宅が密集しており、人口密度は区内9位で、西葛西とほぼ同じである。 産業宇喜田町にはテンアライドの関東セントラルキッチン[6][7]など116の事業所があり、1325人が働いている[8]。しかし事業所数は48町中40位、従業者数は35位でビジネス街としては小規模であり、事業所当たりの従業員数(約8人)も区内の平均(約9人)をやや下回っている。業種は建設業(18%)、卸売業・小売業(17%)、製造業(15%)、不動産業(13%)、医療福祉(9%)が多いようである。また区の平均と比較すると建設業(1.82倍)と不動産業(1.79倍)の比率が高く、宿泊業・飲食サービス業(0.43倍)が低いようである。 地価住宅地の地価は、2024年(令和6年)7月1日の地価調査によれば、宇喜田町1426番4の地点で39万7000円/m2となっている[9]。 歴史宇喜田は1596年(慶長元年)、宇田川喜兵衛定氏(宇田川氏参照)によって開発された[10]。地名は、宇田川喜兵衛が開発したところから「宇喜新田」と呼ばれていたものが、さらに縮約されたものとされる[10]。 元は小松川地先の海辺であり[10]、旧中川や旧江戸川の三角州の南端にあった萱(かや)生地・荒地だった。3000石と公称される[10]が、実際は正保の検地で約1111石、元禄の検地で約1459石だった。関東郡代伊奈氏の公認・援助があったとされ[11]、代官見立新田とする説や土豪開発新田とする説[12]がある。 本来の宇喜田は、現在の北葛西から東葛西まで広がっていた。元禄時代に西宇喜田村と東宇喜田村に分かれた[10]が、明治時代に近隣の村々と合併して葛西村になった。昭和7年(1932年)の江戸川区成立時に西宇喜田町・東宇喜田町となったが、昭和9年(1934年)に東宇喜田町は葛西一・二丁目等に変更され(現在の東葛西など)、西宇喜田町は宇喜田町と改称された[10]。1979年(昭和54年)の住居表示実施により、宇喜田町の大半は北葛西一~五丁目となったが一部地区は住居表示を拒絶し、宇喜田という地名を残した。これが現在の宇喜田町である。 棒茅場通りや新田仲町通りは、東西宇喜田村の境に沿っていると思われる[13]。それより南は海辺で周辺の村々の飛び地だった。西側には東小松川村の飛び地などがあり、東大島駅付近を流れる旧中川とは接していなかった[14]。1930年(昭和5年)に荒川放水路が完成し、東小松川村などが水没し、現在のような地形になった。北東部では中葛西一丁目も宇喜田であり、現在でも宇喜田東公園などの地名が残っている。葛西地域では、この他にも雷(いかずち)、仲町、棒茅場(ぼうしば)などの古い地名が散見される。 世帯数と人口2024年(令和6年)8月1日現在(江戸川区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年4月時点)[21]。なお、江戸川区では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能。[22]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[23]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
交通公共交通宇喜田町に鉄道駅および鉄道路線は存在しない。近隣地域に2路線2駅が徒歩利用可能圏に所在し、地区南端部からは南方の地下鉄東西線が、それ以外からは北方の都営新宿線が最寄駅となる。
道路・橋梁
施設
史跡
その他日本郵便脚注
参考文献
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