半高村
半高村(はんたかむら)は、かつて愛知県碧海郡にあった村である。現在の刈谷市の一部(半城土町・半城土中町・高須町など)に該当する。 地理猿渡川の左岸にあった[1]。村名は「半城土」(はじょうど)と「高須」(たかす)から一文字ずつ取った合成地名である[1]。 歴史高須村猿渡川の河口部にある洲高の地を開墾したことで高洲村と称していたが、やがて高須村という表記に変わったとする説がある[1]。美濃国石津郡高須(現在の岐阜県海津市)からやってきた加藤円悟がこの地を開拓したことから高須と呼ばれるようになったとする説もある[1]。現在の高須周辺には加藤という姓が多い[1]。 近世初期の高須は小垣江村の枝郷だったが、慶安4年(1651年)に15戸が移り住んで新田を開拓した[1]。ただし『元禄郷帳』や『天保郷帳』には高須村の名は見られない[1]。近世初期の高須村は刈谷藩領だったが、寛政4年(1792年)には陸奥福島藩領となり、1869年(明治2年)には重原藩領となった[1]。1889年(明治22年)には下重原村の大字高須となったが、1891年(明治24年)には半高村の大字高須となった。 半城土村字西裏には弥生時代後期の半城土貝塚がある[1]。中世には稲垣雅楽守の屋敷跡があった[1]。近世には半昌土や繁昌土という表記もみられる[1]。 慶長年間(1596年-1615年)に野田村から分村して半城土村が成立した。近世初期の半城土村は刈谷藩領だったが、寛政4年(1792年)には陸奥福島藩領となり、1869年(明治2年)には重原藩領となった[1]。近世には池鯉鮒宿の助郷村だった[1]。 1876年(明治9年)の戸数は165、人口は623[1]。1880年(明治13年)には明治用水西井筋が半城土村を通ったため、水田の開発が進展した[1]。1889年(明治22年)には下重原村の大字半城土となったが、1891年(明治24年)には半高村の大字半城土となった[1]。 年表
名所・旧跡
脚注参考文献
関連項目 |
Portal di Ensiklopedia Dunia