二俣川
二俣川(ふたまたがわ)は、神奈川県横浜市旭区の町名。旭区の中心となる地域である。現行行政地名は二俣川1丁目および二俣川2丁目。鎌倉時代初期の1205年に頼朝死後の御家人同士の内紛をきっかけに北条義時率いる軍勢と畠山重忠軍がこの地で戦った。 概要相模鉄道二俣川駅が当地域の中心にあり、駅直結のジョイナステラス二俣川が2018年に開業した。この駅は相鉄本線から相鉄いずみ野線が分岐する交通の要衝となっており、経由する全ての列車が停車する。また、駅の北口付近を厚木街道(県道40号)が通っている。 二俣川駅前では相鉄バスが運行されており、南口からは東戸塚駅西口行や隣駅である希望ヶ丘駅行、北口からは保土ヶ谷駅東口行、三ツ境駅行、旭高校行、運転免許センター循環などがある。 駅の北側の中尾には、県内唯一の運転免許試験場があるため、神奈川県で運転免許を取得した人ならば、一度は行った事のある場所である。また試験場の向かいには神奈川県立がんセンターがあり、2013年11月2日には新病院がオープンした。 2010年現在、南部の鴨居上飯田線が拡幅・新規整備工事中である。また、相鉄新横浜線開業に合わせて二俣川駅南口エリアの再開発が行われた(詳細は「二俣川駅#南口エリアの再開発」を参照)。 畠山重忠と史跡(二俣川古戦場)畠山重忠(はたけやましげただ)は、鎌倉時代の武蔵国男衾郡(現:埼玉県深谷市)の武士で、源頼朝の忠臣であった人物。 1205年、重忠のことを疎ましく思っていた北条時政は、重忠を討つために「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と偽りの手紙を重忠に送り、鎌倉に呼び寄せる。重忠は家臣たちを連れて埼玉の居城から出発し、二俣川付近まで来たときに、北条の軍が牧ヶ原(現:万騎が原)に大挙しているとの報を受けるが、退かずに鶴ケ峰に布陣した。畠山軍(134騎)は北条軍(1万騎以上)と激戦を繰り広げるも、戦力の差が大きく、戦には敗れ、重忠は討死してしまう(畠山重忠の乱)。 二俣川駅南口から南方方向に程なく行った所にある県営万騎が原団地の一角には、地元の有志により1892年(明治25年)に建立された「畠山重忠公遺烈碑」がある。また、1955年(昭和30年)6月22日には没後750年を記念して、鶴ケ峰と埼玉県川本村の有志が「畠山重忠公碑」を鶴ヶ峰に建立している。他にも二俣川古戦場周辺(鶴ヶ峰)には、「重忠首塚」「すずり石水」「六ッ塚」「駕籠塚」「首洗いの井戸」など重忠に纏わるものが多く残る(「鶴ヶ峰#史跡」も参照)。これらは横浜市登録地域文化財に登録されている[5]。 地価住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、二俣川2丁目32番18の地点で31万円/m2となっている[6]。 歴史
地名の由来
世帯数と人口2023年(令和5年)4月30日現在(横浜市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2020年4月時点)[16]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[17]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
周辺二俣川
その他周辺道路
その他日本郵便警察町内の警察の管轄区域は以下の通りである[20]。
二俣川を舞台とした作品脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |