ミュンヘン=上バイエルン大管区
ミュンヘン=上バイエルン大管区、ミュンヘン=オーバーバイエルン大管区(ドイツ語: Gau München-Oberbayern)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の設置した大管区の一つである。 概要1928年、上プファルツ大管区指導者に任命されたアドルフ・ワーグナーは、翌1929年にミュンヘンの地区指導部とミュンヘン地域から構成される「大ミュンヘン大管区(Gau Groß-München)」の指導者を兼任していた。(それまでは1925年から党幹部のヘルマン・エッサーが率いていた)。1930年11月15日、上バイエルン(オーバーバイエルン)大管区(1928年よりフリッツ・ラインハルト指導下)と合併した後、ミュンヘン=上バイエルン大管区として再編され大管区指導者にはワーグナーが続投された。この大管区は上バイエルン地域の行政区画とほぼ一致していた。ワーグナーは1933年11月の国会選挙に当選している[1]。 ワーグナーは1931年6月までに、ナチ党の全国指導部と同様に5つからなる独自の組織体制を大管区内に確立した。(農業、経済、文化、社会政策などの各部署)また、大管区内の各地区指導部もこの組織構造に倣った。1932年1月1日、大管区機関紙「戦線(Die Front)」において、これらの組織運営は以下のように宣伝された。「我が大管区の諸組織は今日、たとえ小規模なものであっても、来たるべき国民社会主義国家の模範たる姿である。」 1935年の統計では、ミュンヘン=上バイエルン大管区は26の管区、249の地区、144の分区、1,291の細胞、4,258の街区で構成され、412人の政治指導者を含む計9,600人の政治指導部員を有していた。1935年のミュンヘン=上バイエルン大管区の党員数は、その地域の総人口(=1,767,655人)に対して、3.32%の党員(= 58,677人)しか存在せず、全体の3分の1であった。 1934年、大管区本部は「国民社会主義者の家(Haus der Nationalsozialisten)」に移転した。建物はプラナー通り20番地にある旧議事堂を改装し使用された。(以前の本部は1931年よりバラー通り14番地の建物に存在した) 1933年にバイエルン自由州では、リッター・フォン・エップが国家代理官に任命され、彼の下に6名の大管区指導者が置かれた。1933年4月12日、リンダウ市長ルートヴィヒ・ジーヴェルトがバイエルン州首相に任命された。1933年3月にワーグナーは州委員兼臨時内務大臣、1933年4月に内務大臣及び副首相、1936年12 月にバイエルン州文化大臣に就任した。また、当時ミュンヘン警察署長代理であったハインリヒ・ヒムラーに命じダッハウ強制収容所が設置された。 1939年に第二次世界大戦が開戦すると、ワーグナーは2つの軍管区(ミュンヘンとニュルンベルク)を統括する全国防衛委員に任命された。1942年6月、ワーグナーは脳卒中を起こし1944年4月12日に死亡した。パウル・ギースラーが代行として大管区の運営を引き継ぎ、1944年に正式に任命された。また、副大管区指導者には、ルートヴィヒ・ジーヴェルトの息子であるフリードリッヒ・ジーベルトが就任した。 備考大管区及び大管区指導者の変遷
組織
人事
構成管区
脚注注釈出典
関連項目 |