リンダウ
リンダウ(標準ドイツ語: Lindau、アレマン語: Lindou)は、ドイツ連邦共和国のバイエルン州シュヴァーベン行政管区に属する都市。人口は約2万4千人。 地勢・産業スイス、オーストリア国境に面するボーデン湖に浮かぶ島。鉄道も島まで橋沿いに乗り入れる。観光産業が発展し、多くの観光客を集める。ドイツ・アルペン街道の起点となる街。近隣の都市としては、約20キロ北西にフリードリヒスハーフェン、40キロ北西にコンスタンツ、30キロ南西にスイスのザンクトガレンが位置している。毎年リンダウ・ノーベル賞受賞者会議が開催される。 歴史Lindau の表記は1339年以来のもの。最も古い表記は882年のLintoua。これは古高ドイツ語のlinta(今日のドイツ語Lindeに対応し、「リンデ、シナノキ、ぼだい樹」を意味する)とouwa(「島」)の合成語で、「湖の中のぼだい樹の茂る島」であることを表した地名と思われる[2]。 810年あるいは820年に、恐らくアーダルベルト伯(Graf Adalbert von Rätien)によって、設立された立誓共唱共住会女子修道院(Kanonissenstift)が出発点となった。修道院は839年に公吏不入権(Immunität)を賦与された。叙任権闘争中、北側の湖畔にあった市場集落エシャハ(Äschach)が、より安全なリンダウ島に移された。ホーエンシュタウフェン家の教会守護権(Vogtei)に入った修道院は1180年頃市場集落のためにシュテファン教会を建設した。1216年計画的都市造成がなされ、石造の市壁内の面積は 12 ha弱、人口は 2000人強であった。王権による特権賦与(1274年/1275年伯爵裁判権からの解放Befreiung vom Grafengerichtと守護権の質入れ禁止Nichtverpfändung der Vogtei)と経済的発展そして修道院の財政的弱体化により市は修道院長の支配から脱するようになった。1264年市参事会は関税・造幣・代官(Amman)に関する権利を獲得した。1345年 ツンフトは参事会に参加した。1396年には流血裁判権(Blutbann)を獲得した。陸上・水上交通の要衝として穀物、ワイン、塩、布のイタリア、南フランス、スイスへの遠隔交易によって栄えた[3]。 1530年頃宗教改革を受け入れた。1803年市はブレッツェンハイム侯家(Fürsten von Bretzenheim)の手に帰し、侯は修道院も確保してここにリンダウ侯国(Fürstentum Lindau)が生まれた。当時の人口は5‐6000人であった。侯家は翌年ハンガリーの土地を取得する代わりに侯国を オーストリアに譲渡した。その翌年リンダウはバイエルンに帰属した[4]。 13世紀、神聖ローマ皇帝のルドルフ1世(Rudolf von Habsburg)によって、帝国自由都市の地位を認められた。中世より、ボーデン湖を舞台とした物流の拠点として栄えた。17世紀、三十年戦争でスウェーデン軍が街に迫るが、略奪は免れた。19世紀初頭よりバイエルンの支配下に入った。 住民上部ドイツ語に属するアレマン語の一方言である低地アレマン語に属するボーデン湖アレマン語を使用するアレマン系が多い。 出身者引用
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