政治指導者政治指導者(独:Politischer Leiter)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が用いた地方党幹部の総称である。 当初、政治指導者は「党部局監査官(Amtswalter)」と呼ばれた。各政治指導者は党指導者(総統)アドルフ・ヒトラーに宣誓をおこなっていた[1]。街区指導者から全国指導者までを含んだ政治指導者の任務は、特に党各組織の監督および指導、住民の政治的監視、宣伝とナチズムのイデオロギー教育にあった[2]。 概要ナチ党の政治指導部は、とりわけ、「党の統轄地」(街区、細胞、地区、管区、大管区、全国)を代表する「指導者」を支援するために発足した[1]。事務的な任務を請け負った他の役人と共に党の政治指導者は、統一された政治的目標の下「政治指導者団(Korps der Politischen Leiter)」を形成し、軍隊的な組織構造で統一され、階級制度がとられた。政治指導者は、その黄褐色の制服から「黄金のキジ(Goldfasan)」と渾名された。1937年まで政治指導者は約70万人存在した。 地区指導部以上の政治指導者は、常勤的に活動していたにもかかわらず、法律上、公務員ではなかった。しかし、ナチ党の要覧では公務員と同様の存在として規定されていた。ナチ党の見解によれば、政治指導者は「各地における党の伝達者であると共に一兵士」でなければならなかった。また、政治指導者は各地の住民を監視する党の監視者でもあった。政治指導者は、担当地区の住民に関する報告書を作成する必要があり、その内容は「一般的な調査報告」として記入し、定期的に補足する必要があった。 政治指導者の養成機関政治指導者の育成は、1937年以降、指導者選択(Führerauslese)の一環として、アドルフ・ヒトラー・シューレへの通学(6年間)から「人生闘争の修練期(Bewährung im Lebenskampf)」(7年間)に至るまで「党の教育システム」により完了する必要があった。そして最終的に、高等学校にあたるオルデンスブルク政治指導者学校へ4年間通学する必要があった[3]。しかし、これらの党幹部育成は、部分的にしか実施されなかった。 戦後第二次世界大戦の終戦後、ナチ党の政治指導者および政治指導者団は、1946年のニュルンベルク裁判において、「支配地域のドイツ化、ユダヤ人に対する迫害、強制労働と戦争捕虜の虐待」で起訴され、第二次世界大戦開戦の1939年9月1日以降に活動していた、すべての全国、大管区、管区指導者は有罪とされた。連合国管理評議会法第10号によると、罰則は「公民権の部分的解消」から死刑にまで及んだ。可能であるが、裁判所は、いかなる場合でも非ナチ化法によって規定された罰則を超えないように法律の改正を勧告した[3]。 備考忠誠宣誓[4]→「忠誠宣誓 (ドイツ)」を参照
党員証の贈呈式により、党員は厳粛に登録された。全ての新党員は、既に突撃隊や親衛隊等の組織に所属していても、この忠誠宣誓を行う必要があった。 贈呈式は、現地の地区指導者が党の総会で行い、短い演説により党の同志の責務を説明し、忠誠宣誓の重要性を指摘する。その後、新党員による宣誓が暗唱された。党員としての結束を義務づけられた者は、右手を挙げ敬礼し、忠誠宣誓を暗唱する。 忠誠宣誓は次の如くである。
贈呈式は、地区指導者による次の言葉で厳粛な形で終える。
12の指導テーゼ[5]
指導要項[6]
政治指導部階級・部局記号脚注
参考文献
関連項目 |
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