ハイドンの交響曲一覧ハイドンの交響曲一覧では、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの交響曲のリストを示す。 概要20世紀はじめのブライトコプフ社ハイドン全集(GA)においてオイゼビウス・マンディチェフスキはハイドンの交響曲に時代順に104番までの番号を振り、ホーボーケン番号はそれに従っている。しかしながらその後の研究の進展によって、実際にはあまり年代順には並んでいないことがわかっている。たとえば年代のわかっている最古の作品は交響曲第37番(1758年の筆写譜が残っており、それ以前の作品)であるし、交響曲第72番もまた初期の作品である。 ハイドンの交響曲は106曲(1 - 104番、A、B)が存在し、それ以外に断片曲が1曲、協奏交響曲、および偽作も存在する。交響曲は20歳代なかばから60歳代までの約40年間にわたって作曲され、18世紀後半における交響曲の発展の中核を形成したといえる。 初期の交響曲については不明な点が多い。19世紀はじめのグリージンガー(Georg August Griesinger)のハイドン伝によると、1759年以降、ボヘミアのモルツィン伯爵家の音楽監督として活動していた時期にハイドンは最初の交響曲である交響曲第1番を書いたとされる。しかし、上記の37番がそれ以前の作品であることから、それ以前のウィーン時代にすでに交響曲を作曲していたか、あるいはハイドンがそれ以前からモルツィン伯爵家に仕えていたと考えられる[1]。最近ではモルツィン伯爵に仕えるようになった時期を1757年ごろに引き上げ、交響曲第1番や第37番はその頃に書かれたと考えられるようになってきている[2]。 1765年までの初期の交響曲では楽章構成が一定していないが、その後は4楽章構成(第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット)でほぼ安定する。1766年にエステルハージ家の楽長に就任した後、1767 - 1768年ごろからしばしば革新的な語法を採用し、ハイドンの「シュトルム・ウント・ドラング」時代と呼ばれる。1773年ごろからはエステルハーザの劇場の音楽監督の仕事で忙しくなるが、この頃の音楽はより娯楽的で軽い傾向を見せる(古典的とも呼ばれる)。 1780年以前のエステルハージ家の楽団は現代のオーケストラからは考えられないほど小さなものであり、むしろ室内アンサンブルと呼んだ方が適切で、1767年ごろまでは13 - 16人の間だった。その後少し大きくなり、1780年代には22 - 24人になった[3]。ただし、初期には時々コーラングレや4本のホルンが使われているものがある。初期の交響曲ではフルートが使われることがあったが、フルート奏者のフランツ・ジーグルが1765年9月に解雇されてからは長らく管楽器はオーボエとホルンのみだった(ファゴットも使われたが、1774年の交響曲第54番以前は通常独立したパートを持たず、チェロやコントラバスとともに「低音」の楽譜を演奏していた)。 なお、初期の交響曲はチェンバロを加えて演奏されることが多いが、研究者はハイドンの交響曲では初期からチェンバロは使われていなかったと考えている[3][4]。1791-1792年のザロモンの演奏会でハイドンはチェンバロの前に座ったとされ[5]、実際交響曲第98番の自筆譜にはハイドン本人によって演奏されたであろうチェンバロの独奏がある(これはハイドンの全交響曲で唯一チェンバロを必要とする箇所でもある)が、当時の筆写譜や印刷譜にはチェンバロ独奏部は存在せず、本来は曲の一部ではなくてその場だけのサービスのつもりだったかもしれない[6]。 1780年代にはいるとエステルハージ家の外からの注文で交響曲を書くことが多くなり、有名なパリ交響曲やロンドン交響曲が生まれることになる。後者ではじめて40人を越えるオーケストラが使われた。第2期ロンドン交響曲でははじめてクラリネットが使用された。 いくつかの交響曲には愛称がついているが、そのほとんどはハイドンがつけたものではなく、ハイドンの没後につけられたものも多い。その中には適切とは言えないものも多く、由来が不明のもの(マーキュリー、帝国)や勘違いによるもの(マリア・テレジア、奇蹟)もある。 交響曲一覧(Hob. I)
偽作の交響曲ホーボーケン番号の後に付けられるアルファベットは調性の略で、大文字の「C1」は「ハ長調の交響曲」、小文字の「c1」は「ハ短調の交響曲」を意味する。
脚注
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