ニック・シンパー
ニック・シンパー(Nick Simper, 1945年11月3日 - )はイングランド出身のロック・ミュージシャン、ベーシスト。ディープ・パープルのオリジナル・メンバー。 経歴生い立ち旧ミドルセックス州サウスオールのノーウッドで生まれる。本名ニコラス・ジョン・シンパー。 幼年時代からギターを弾き始め、やがてベース・ギターに持ち替えた。 黎明期1959年に加入したザ・レネゲイズ[注釈 1]を皮切りに[1]、デルタ・ファイヴ、サム・アザー・ガイズ、バディ・ブリトン&リージェンツ(The Regents)など数々のバンドを経験し、セッション活動を行なった。スクリーミング・ロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジズに在籍していたリッチー・ブラックモアと知り合う。 1966年にはメンバーを一新したジョニー・キッド&ザ・パイレーツに加入したが、10月7日、キッドとともに交通事故に遭遇。彼は軽傷だったがキッドは死亡した[2]。1967年までの短期間ザ・パイレーツを再興するが、すぐにヴォーカル・グループのザ・フラワー・ポット・メンのバック・バンドに参加し、ジョン・ロードと出会う[3]。 ディープ・パープル1968年、ロードとブラックモアが新たに結成したラウンドアバウトに加入。ラウンドアバウトは同年4月にディープ・パープルと改名して[4]、3作のアルバムを発表して「ハッシュ」と「ケンタッキー・ウーマン」のヒット曲を放った。 1969年4月初めから5月末まで行なわれた2度目のアメリカ・ツアーの途中、ロードとブラックモアはハード・ロックを指向してシンパーとボーカリストのロッド・エヴァンスを辞めさせることを決意[5]。シンパーとエヴァンスは、6月にイギリス各地で行なわれたコンサート[5]を経て、7月4日のカーディフ公演を最後に[6]ディープ・パープルを去った[7]。自分に対する処遇に不満を持ったシンパーは訴訟を起こして、約10,000ポンドの賠償金を得た代わりに、将来のアルバムの印税を取得する権利を放棄した[要出典]。 その後1970年にウォーホース(Warhorse)[注釈 2][8]、1979年にニック・シンパーズ・ファンダンゴ(Nick Simper's Fandango)[9]を結成し、それぞれスタジオ・アルバムを2作発表した。 1971年4月、ロンドンのCountry Clubでロード・サッチのライブ活動に参加[10][注釈 3]。1972年にサッチがロード・サッチ・アンド・ヘヴィ・フレンズ名義で発表したライブ・アルバム『ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー』[11]に参加[注釈 3]。 1997年には、元クォーターマスのミック・アンダーウッドが結成したクォーターマスIIに、元レインボーのドン・エイリーらとともに参加した。 2000年代にはザ・グッド・オールド・ボーイズ(The Good Old Boys)[12]に参加したり、オーストリアのナスティー・ハビッツ(Nasty Habits)[13]と共演するなど、精力的に活動した。 ![]() 2016年、ディープ・パープルが『ロックの殿堂』入りを果たしたが、シンパーは受賞者に選ばれなかった[注釈 4][14]。 ディスコグラフィディープ・パープル
シンパーが在籍した第1期の音源のみを編集したアルバムを記す。
ウォーホース
ニック・シンパーズ・ファンダンゴクォーターマスII
ザ・グッド・オールド・ボーイズ
ナスティー・ハビッツ以下、ニック・シンパー・アンド・ナスティー・ハビッツ名義。
Blaggards & Cowboys参加アルバム
脚注注釈出典
引用文献
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia