この俳優の身元を特定するのに役立つ証拠としては以下のようなものがある。ストラトフォードのシェイクスピアは遺言書においてロンドンの劇団から俳優達への寄贈品を遺した。ストラトフォードの男と作品の著者は名前が同じである。1623年刊のファースト・フォリオの序詞において「エイヴォンの白鳥」("Swan of Avon"、ベン・ジョンソンの詩。シェイクスピアの美称として定着している)、あるいは「ストラトフォードの記念碑」(レオナルド・ディッグスの詩)といった表現が見られる[2]。従来の研究者は、後者のフレーズはストラトフォードにあるホーリー・トリニティ教会(英語版)の墓標を表すものと推定している。その墓碑銘でシェイクスピアは作家と呼ばれており、ウェルギリウスとの比較や彼の作品に対する「生きた芸術」との評言もあり、1630年代頃までにはストラトフォードへの訪問者はこれを「記念碑」と表現していたのである[3]。
反ストラトフォード派は、戯曲を書くのに必要とされる教育をシェイクスピアが受けていた証拠がないという点をしばしば指摘する。一方、シェイクスピアは14歳までストラトフォードのキングス・スクール(エドワード6世校、King Edward VI School Stratford-upon-Avon)に出席する権利を与えられており、そこでラテン詩人やプラウトゥス(Plautus)のような劇作家について学んだであろうというのがストラトフォード派の立場である。ただし、当時の学籍簿は紛失しているので、シェイクスピアがこの学校に出席していたかどうかは明らかではない[11]。
ストラトフォード派は、シェイクスピアの作品が必ずしも並外れた教養の持ち主でなければ生み出しえないものだとは見なされてこなかったと述べる。ファースト・フォリオの献辞においてベン・ジョンソンがシェイクスピアのことを"And though thou hadst small Latine, and lesse Greeke," すなわち「ラテン語を少し、ギリシア語はもっと少し」(しか知らなかったけれども、その作品はきわめて偉大である、と続く)と評しているのは誰もが知るところであり、シェイクスピアの教養に関する話では必ず引用される事実である。
反ストラトフォード派のさらなる論駁は、政治や法律や外国語に関する詳細な知識が作品に散りばめられているが、上流階級の出身ないしは大学での高等教育を受けた者でなければこうした知識を得ることは不可能だというものである。正統派研究者は、シェイクスピアは出世して上流階級の近くにいたのだと応じる。シェイクスピアが所属していた国王一座はその名の通り国王ジェームズ1世の庇護を受けており、宮廷でも上演を行っていたため、貴族社会の生活の様子を観察する機会が充分にあったのだ。しかも、こうした上演活動を通じて得た報酬によってシェイクスピアはそれなりに裕福になっており、当時の多くの富裕な中産階級と同じように、紋章を授けられジェントルマンとして認められていたのだと。これに対する再反論として反ストラトフォード派が持ち出すのは、シェイクスピア同様に身分の低かったベン・ジョンソンがヘンリー王太子から『女王たちの仮面劇』("The Masque of Queens"、1609年)の執筆を依頼され庇護を受けるようになるまでにデビューから12年かかっているという事実である。サウサンプトン伯ヘンリー・リズリー(Henry Wriothesley)がシェイクスピアのパトロンになったのは長詩『ヴィーナスとアドーニス』(1593年)を捧げられたことがきっかけだが、これがシェイクスピアの最初期の著作であることから考えると、貴顕の眼鏡に適ったのが早すぎるということである。
ジョナサン・ベイト(Jonathan Bate)は、その著書"The Genius of Shakespeare"において、こうした出身階級を巡る議論については全く逆のこともいえると述べている。すなわちシェイクスピアの戯曲には、オックスフォード伯やベーコンのような上流階級の人間が詳しく知るはずのない下層階級の生活や俗語も詳細に描かれているという点である。フォルスタッフ(『ヘンリー四世』『ウィンザーの陽気な女房たち』)、ニック・ボトム(Nick Bottom、『夏の夜の夢』)、アウトリュコス(Autolycus、『冬物語』)、サー・トービー(Toby Belch、『十二夜』)その他、シェイクスピアの登場人物の中でもとりわけ活き活きと描かれている者達は大抵下層階級ないしは下層階級に近しい者ばかりなのである[21]。しかし反ストラトフォード派の指摘する通り、シェイクスピアが貴族階級を描く時の著者の表現は人間的で多面的なのに対し、農民達の描写の仕方は全く異なっており、滑稽で珍妙な名前(ボトム(どん底)やベルチ(ゲップ)の他、『ヘンリー四世 第2部』のブルカーフ(牛の仔)、『尺には尺を』のエルボウ(肘?)など)を付けたり、ジョークの標的や暴徒として描いたりしていることもあるため[22]、作中の表現から読み取れる作者の身分は曖昧なものにとどまっている。
しかし、16世紀から17世紀の文書を調べてみれば、その調査の及ぶ範囲に限りがあるとはいえ、一般語を合成してできた固有名詞にはハイフンのあるものとないもの(例えば、"New-castle"と"Newcastle"など)が混在していることが分かる。同じ著者によって書かれた同じ文書の中でさえ、無秩序に両方の表記が採用されていることがある。シェイクスピアの初期作品ではないかとも噂された戯曲『サー・ジョン・オールドカースル』("Sir John Oldcastle")などにおいては、明らかにその傾向が見られる[24]。
オックスフォード派は、「シェイク-スピア」のハイフネーションに関しては不規則でも偶発的でもなく、顕著なパターンの下で使用されているという見解をもっている。
同じ著書の中で、彼はシェイクスピアが「シーザーになりきって」(おそらく舞台上で)いったセリフを嘲笑している。「シーザーは不当な行ないはしない、正当な理由のあるとき以外は」("Caesar never did wrong but with just cause"、『ジュリアス・シーザー』第3幕第1場)というものだが、こうした「馬鹿げた」ことをシェイクスピアはしばしば書いたとジョンソンは評している[25]。(実際にファースト・フォリオに収められている文面はこれとは異なり、「シーザーは不当な行ないはしないし、正当な理由なしに償いもしない」("Know, Caesar doth not wrong, nor without cause / Will he be satisfied")というもので、最後に別の語句が付け加えられているが、これは意味の通じるよう編纂者によって加筆されたものである。しかし、元の矛盾した言葉の方がシーザーの壮大な野心をうまく表しているかもしれないという解釈に基づき、再びつけ加えられた)。ジョンソンは自身の戯曲"The Staple of News"(1626年)において、直接シェイクスピアの名前は出さずに再びこのくだりを嘲笑している。反ストラトフォード派の中には、ジョンソンによるこれらのコメントを、シェイクスピアが真の作者であるということに対する疑念の現れであると解釈するものもいる[26]。
ロバート・グリーン(Robert Greene)の死後に刊行された著書『三文の知恵』("Greene's Groatsworth of Wit"、1592年。刊行者である仲間の劇作家ヘンリー・チェトル(Henry Chettle)の作という説もある)においては、シェイクスピアを模した"Shake-scene"(舞台を揺るがす者)なる劇作家のことを、イソップ寓話を引いて「我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラス」と呼んでおり、その後には露骨に『ヘンリー六世 第3部』第1幕第4場のヨーク公のセリフ"O tiger's heart wrapt in a woman's hide!"(「女の皮を被った虎の心よ!」)をもじって引用した「役者の皮を被った虎の心」なる皮肉が続く。グリーンの初期の著作"Mirror of Modesty"(1584年)の序文でも、「他の鳥の羽で自分を飾り立てたカラス」という同様の比喩で、自分の功績でもないことを自慢する人々を批判していることから、これはシェイクスピアを盗作作家として中傷したものと解釈される。ロンドンの劇壇がシェイクスピアに言及した文献として最も早いものとして知られる(と同時に、それによってしか知られていない)が、悪意に満ちたほのめかしがあるばかりで具体的にシェイクスピアのどこが盗作であり、何を非難しようとしているのかは明示されていない。高等教育を受けた当時の一流劇作家グリーンが、下層階級出身の俳優の分際で厚かましくも戯曲など書いて自分の領域に踏み込んできた得体の知れない作家のことが気に入らなかったのだろうという見解で大方の研究者は一致している(シェイクスピアの『冬物語』はグリーンの小説『パンドスト王』("Pandosto"、1588年)を種本としていたという説もあるので、これを盗作として憤慨していた可能性もある)。反ストラトフォード派にいわせると、これも当時からシェイクスピアが偽者であることを疑っていた人がいたという証拠である[26]。
ただし河合祥一郎は、「成り上がりもののカラス」は、シェイクスピアのことではなく俳優ジェイムズ・アレンのことだと論じている[27]。
ジョン・マーストン(John Marston)は風刺詩『悪行の鞭』("The Scourge of Villainy"、1598年)の中で、下層階級と肉体関係を結ぶことで「汚染」された上流階級のことを罵倒している。性的な比喩を散りばめながら、彼は問う。
Shall broking pandars sucke Nobilitie? Soyling fayre stems with foule impuritie? Nay, shall a trencher slaue extenuate, Some Lucrece rape?. And straight magnificate Lewd Jovian Lust? Whilst my satyrick vaine Shall muzzled be, not daring out to straine His tearing paw? No gloomy Juvenall, Though to thy fortunes I disastrous fall.
Whoever hath her wish, thou hast thy Will(sic), And Will to boot, and Will in overplus; More than enough am I that vex thee still, To thy sweet will making addition thus.
意志や心を表す"will"とウィリアムの愛称である"Will"をかけた語呂合わせは、"And then thou lovest me, for my name is Will"(「そうすればあなたは私を愛することになる、なぜなら私の名前が"Will"だから」)というオチの付けられるソネット136番でも続けられている。フィクション内における遊び心という訳であるが、"Will"という名前が織り込まれていることから以下の2つの可能性が考えられる。
Why write I still all one, ever the same, And keep invention in a noted weed, That every word doth almost tell my name, Showing their birth, and where they did proceed?
またソネット145番もシェイクスピアの妻アン・ハサウェイの名を織り込んだ語呂合わせを含んでいるとの説もある。これは1971年にアンドルー・ガー(Andrew Gurr)によって発表された学説で、ソネット145番に出てくる"hate away"('I hate' from hate away she threw,)の語はエリザベス朝時代の発音ではハサウェイとほとんど同じになるはずだというものであり、次の行に出てくる"And saved my life,"も同様に"Anne saved my life"のように聞こえるとも述べている。
シェイクスピアの著述に対する疑念を初めて直截的に表明したのは18世紀に発表された2つの寓話であり、この中でシェイクスピアについての反主流的な見解が述べられたのである。ハーバート・ローレンス著"The Life and Adventures of Common Sense"(1769年)の中で、シェイクスピアは「ずる賢い舞台ゴロで、(中略)救いようのない盗っ人だ」とまでこき下ろされている[31]。また「英国海軍将校」を名乗る匿名の人物による"The Story of the Learned Pig"(1786年)においては、シェイクスピアはただのお飾りで、"ビリーとかいう名のポン引き"が本当の作者だと書いている。
ローニーがオックスフォード伯説を展開した1920年の著書"Shakespeare Identified in Edward de Vere, 17th Earl of Oxford"[34]は、フロイトやオーソン・ウェルズ、マーガレット・ガブリエル・ロング(Margaret Gabrielle Long、マージョリー・ブラウンやジョゼフ・シェアリングといったペンネームでヴィクトリア朝時代を舞台とした小説を多く書いた作家)を初めとする、20世紀初頭の知識人の多くを納得させた。この著書により、オックスフォード伯を真の作者とする考えが急速に支持層を広めることとなったのである。
1984年に出版されたチャールトン・オグバーンの著書"The Mysterious William Shakespeare"は、オックスフォード伯説を裏づける新たな研究成果を数多く提示したばかりでなく、正統派の研究者が依拠する理論や方法に対する批判をもその内容に含んでいた。フォルガー・シェイクスピア図書館(Folger Shakespeare Library[2])の発行する研究誌"Shakespeare Quarterly"の書評の中で、同図書館の教育プログラム・ディレクターであるリッチモンド・クリンクレイ(Richmond Crinkley)も、オグバーンが提唱した研究理念に同意している。曰く「シェイクスピアに対する疑念は昔から存在し、急速に広まった。しかもそれらの疑いには単純かつ直截なもっともらしさがあった」「このもっともらしさは、これに応じた伝統的な学術研究の論調や方法論によって助長された」(Vol.36: p.518)。つまり、従来の保守的な研究者の「馬鹿馬鹿しくて真面目に論ずるに値しない」とでもいいたげな態度こそがこの疑念を促進させたのである。
"...so the best for comedy amongst us bee, Edward Earle of Oxenforde, Doctor Gager of Oxforde, Maister Rowley once a rare Scholar of learned Pembroke Hall in Cambridge, Maister Edwardes one of her Majesty's Chapel, eloquent and witty John Lilly, Lodge, Gascoyne, Greene, Shakespeare, Thomas Nash, Thomas Heywood, Anthony Munday our best plotter, Chapman, Porter, Wilson, Hathway, and Henry Chettle."
16世紀の出版業界において、匿名・変名出版はごくありふれたものであった。エリザベス朝時代の代表的な文芸批評『英詩の技法』("Arte of English Poesie"[35]、1589年。著者はジョージ・プットナム(George Puttenham)と推定されている)の中のあるくだりには、宮廷内の文人達による秘密出版についての言及がある。
ベーコン派の人々が提示する証拠は以下のようなものである。作者の正体を隠蔽しておく必要があったこと。『間違いの喜劇』の初演時の状況。『テンペスト』の種本となったと考えられている「ストレイチー書簡」を参照しやすい立場にベーコンがいたこと。ベーコンも知っていた戯曲の中に法曹関連の人物に対するほのめかしがあること。ベーコンの公刊された著書や『慣用表現と上品語の宝庫』("Promus of Formularies and Elegancies"、ベーコンの私的なメモの集成。以下『プロムス』と略記)に、正典と類似する語句が見られること。国家政体史を書こうとの意図をベーコンが抱いていたこと。戯曲の中に自伝的な言及が隠されていること。ベーコンは政府の暗号作成・解読法を熟知しており、これを用いて正典の中に自分の名前を潜ませることが可能であったことなど。
法廷弁護士であり詩人でもあったヘリフォードのジョン・デイヴィス(John Davies of Hereford)へ宛てた1603年の書簡において、ベーコンは国王へのとりなしをデイヴィスに依頼しながら「すべての隠れた詩人に仁慈を賜りたく……」と書き、自分自身を匿名の詩人と呼んでいる。したがって、同時代の人々の何人かはベーコンが秘密のうちに書いた作品があることを知っており、ときおりそれをほのめかしているとベーコン派は主張している。例えば、ジョセフ・ホール(Joseph Hall、1574年 - 1656年)とジョン・マーストン(John Marston、1575年 - 1634年)による風刺詩の応酬[40][41]の中で、二人はレイビオーという仮名の詩人について議論しているが、パラフレーズされて引用されている詩句の内容から、これはシェイクスピアの長詩『ヴィーナスとアドーニス』の著者を暗示したものと考えられている。ホールがこれを猥褻だと非難したのを受けて、マーストンは「自分の遺恨を離れて中道を行くことはできないのか?」("What, not mediocria firma from thy spight?")と答えているが、この「中道を行け」"mediocria firma from"というのはベーコン家の家訓なのである。
ベーコンがシェイクスピアの正典を書いたのだというアイディアはその後しばらく忘れられていたが、1856年にウィリアム・ヘンリー・スミス(William Henry Smith)がエルスミア卿に宛てて書いた書簡によって再浮上した。これは『ベーコン卿こそシェイクスピアの戯曲の作者なのか?』[42]という16ページのパンフレットであり、ベーコンが授受した手紙の中にはベーコンこそ真の作者だと暗示する証拠が散見されるというのがその内容である。翌年、スミスとディーリア・ベーコン(Delia Bacon)はベーコン説を述べた著書をそれぞれ発表した[43][44]。ディーリア・ベーコンの『シェイクスピア劇に現れたる哲学』で提示された学説は、正典の作者はベーコンの他にウォルター・ローリーやエドマンド・スペンサーを含む数人の作家からなるグループであり、戯曲の中に隠された反君主制的な哲学を世に広めることで人類を圧政から解放することが彼らの目的だったのだというものである。
King Henry. The several parcels of his Plate, his Treasure, Rich stuffs, and ornaments of household, which I find at such a proud rate, that it outspeaks Possession of a subject.
ベン・ジョンソンは、ファースト・フォリオにおいてシェイクスピアに宛てた献辞で「あの横柄なギリシアや傲慢なローマが生み出したすべての作品(Of all, that insolent Greece, or haughtie Rome...)」よりもシェイクスピアの作品を高く評価しているが、後年の著作において、ジョンソンはベーコンを讃えるのに同じ表現を用いている。
([Bacon] performed that in our tongue which may be compared or preferred either to insolent Greece or to haughty Rome...)[54] — ベン・ジョンソン
ベーコンが国家の歴史を書くことに関心を抱いていたことは、1621年の著書"History of the Reign of Henry VII"や、1608年の論文"Memorial of Elizabeth"、グレート・ブリテンの歴史を書くための財政支援を無心した1610年のジェームズ国王宛の書簡などからも明らかである[55]。
『法学院録』の最終段落(右図参照)では'greater lessens the smaller'という構文が用いられているが、これは『ヴェニスの商人』(1594年–1597年)の第5幕第1場で使用されているのと同じものである。
Nerissa. When the moon shone we did not see the candle. Portia. So doth the greater glory dim the less, A substitute shines brightly as a King Until a King be by, and then his state Empties itself, as doth an inland brooke Into the main of waters.
ことわざや比喩、警句、定型の挨拶文などを集めた1655篇の手稿からなる『慣用表現と上品語の宝庫』("Promus of Formularies and Elegancies"、略称『プロムス』)と題された雑記帳が19世紀に発見された。自作の断章も含まれてはいたが、大半は他の文学者の引用であった。出典には、セネカやホラティウス、ウェルギリウス、オウィディウスといったギリシア・ローマの古典文学者や、ジョン・ヘイウッド(John Heywood)の"Proverbs"(1562年)、モンテーニュの『エセー(随想録)』(1575年)、その他フランスやイタリア、スペインの文学者が含まれる。エドワード・トンプソン卿(Edward Maunde Thompson)は、この『プロムス』(最終部分を除く)はベーコンの手になるものだと結論を下した。実際、原稿第115葉の裏にはベーコンの署名がある。この雑記帳の内、原稿に日付が入れられているのは3枚目(1594年12月5日)と32枚目(1595年1月27日)の2箇所だけである。『プロムス』中に書き込まれた表現の多くが、シェイクスピアのファースト・フォリオにおいても使用されている。以下、若干の例をあげる。
Hector. Paris and Troilus, you have both said well, And on the cause and question now in hand Have glozed, but superficially: not much Unlike young men, whom Aristotle thought Unfit to hear moral philosophy: The reasons you allege do more conduce To the hot passion of distemper’d blood
マーロウ説が浮上したのは1895年頃であり、20世紀初頭からアーチー・ウェブスターらによって広められた[69]。しかしマーロウを真の作者とする最も詳細な理論を構築したのはアメリカのジャーナリスト、カルヴィン・ホフマン(Calvin Hoffman)とその著書"The Murder of the Man who was Shakespeare"(1955年)である。マイケル・ルボ(Michael Rubbo)によるドキュメンタリー映画"Much Ado About Something"(2001年)においても、マーロウが真作者であった可能性を検証している[70]。
正統派の研究者は、そうした類似点が見られるのはシェイクスピアの若い頃から人気のあったマーロウの影響が現れたためとも考えられ(事実、『ヴェニスの商人』などはマーロウの作品『マルタ島のユダヤ人』("The Jew of Malta"、1589年?)を種本としており、類似点が多いことはむしろ当然といえる)、2人が同一人物であったことを示す有力な証拠とはなりえない、また2人の作品はたとえ語彙が似通っていたとしても、文体や完成度の高さが全く異なると答えている。シェイクスピアの複雑な人物造形の才能や、散文及び弱強五歩格(Iambic pentameter)だけでなくそれ以外の韻律を用いた韻文の技術、喜劇作家としての天賦の才能などの痕跡は、マーロウが残した7本の戯曲からは見出すことができないのである。こうした文体や主題の不一致に関してマーロウ派は、マーロウは野心的な作家であり大胆な文体実験を行っていたのだ、当局の目をごまかし続けるためには文体を変える必要があったのだと説明している。
マーク・アンダーソン(Mark Anderson)は著書"Shakespeare by Another Name"においてシェイクスピアの作品それぞれの執筆年代を調べ、作者が1604年に謎の休筆をしていることに注目した。
1593年から1603年にかけて、シェイクスピア作品は少なくとも年に1作、多い時には4作もの割合で出版されていたのだが、その後1604年に入ると、シェイクスピアは突如として沈黙期に入り、約5年間新作の発表が途絶えたのである。初期の史劇の再版も1604年を1つの転換点としている。1593年から1604年までの間、シェイクスピア作品の劣悪な海賊版が数多く出版されては、その直後に増補ないし改訂された公式の再版本が刊行されるといういたちごっこが続いていた。ところが1604年を過ぎると、この新しい増補や改訂が行われなくなったのである。この点においてもシェイクスピアの仕事が1604年に中断されていることが見て取れる[15]が、当時存命であったストラトフォードのシェイクスピアが作者であるならば、名声の頂点に達していた頃に筆を折るべき理由がないのである。アンダーソンはさらに、シェイクスピアは16世紀の終わり頃まではその時点で最新の科学的発見や出来事を作品の中へ盛り込んでいたのにもかかわらず、オックスフォード伯の死去した1604年頃から科学に関しても沈黙を守るようになったことに喚起を促している。いくつかの例の内目立ったものを挙げるならば、1604年の10月に見られた劇的な超新星(SN 1604)や、1609年に発表されたケプラーの惑星軌道に関する画期的な研究について、作品の中で全く触れられていないのである。
W・R・チェトウッド(W.R.Chetwood)は1756年に、著書"Memoirs of the Life and Writings of Ben Jonson"において、上演記録に基づきながら「1603年の終わりもしくは翌年のはじめに、シェイクスピアは作家としても役者としても、舞台に別れを告げたのだ」と結論付けている。1874年、ドイツの文学史家カール・エルツェ(Karl Elze)は、シェイクスピアの最後期の作品とされる『テンペスト』と『ヘンリー八世』はいずれも1603年から1604年に掛けて書かれたものだと述べている。さらに、18世紀から19世紀の研究者の多くが『ヘンリー八世』の執筆年代を1604年以前としている[15]。
ストラトフォード派の研究者は、それよりももっと早い時期、作者が(その正体が誰であれ)まだ生きていたとオックスフォード派も認めざるをえない1598年に、明らかにシェイクスピアに言及した詩の一節、"Live ever you, at least in Fame live ever: Well may the Body die, but Fame dies never"(永遠に生きよ。少なくとも名誉のもとで永遠に。肉体が死んでも、名誉は決して死にはしない)を引用することをもって答えている[80]。しかしこれはあくまで類似の表現であり、ストラトフォード派の人々は「不滅の」という語が存命の人物に対して用いられた例を発見するには至っていない。
『テンペスト』
(詳細は後述する「ストレイチー書簡」の節を参照)
主流の研究者達によって、『テンペスト』は1610年に書かれた難破事件に関する記録から着想を得たものであることが示されている。1609年、アメリカ植民地へ向かうイギリス船Sea Venture号が嵐に巻き込まれて難破し、消息を絶った。乗員は全員死亡したものと考えられていたが、翌年になって無事に帰還し、大きな話題となった。生存者ウィリアム・ストレイチーによる書簡(出版されたのは1625年)の写しやシルヴェスター・ジョーダンの『バミューダ島発見記』("A Discovery of the Bermudas"、通称「バミューダ・パンフレット」)が1610年に広く出回っていたので、嵐の描写の類似などからシェイクスピアがこれらを参照していたというのが定説になっている[81]。しかし、文学者のケネス・ミューアが「私が思うに、バミューダ・パンフレットがこの作品に及ぼした影響の大きさは誇張されているのではないか」と疑義を表明したのである[82]。ミューアは、ストレイチーの報告書よりも前に書かれたセント・ポールによるマルタでの難破報告書と『テンペスト』との間で共通する13の主題や言い回しを引用している[83]。加えてオックスフォード派は、『テンペスト』に登場する言葉やイメージの引用元として、リチャード・エデンの"The Decades of the New Worlde Or West India"(1555年)やエラスムスの"Naufragium"("The Shipwreck"、1523年)の存在を強調する。これらはいずれも『テンペスト』に影響を与えたかもしれない資料として従来から知られていたが[84]、オックスフォード派はこれこそが種本であったということを証明するために新しい調査を進めている[85]。
またストラトフォード派は、オックスフォード説にとっては根底を覆されるほど不利な証拠となる作品として『マクベス』を挙げる。この作品は伯爵死後の1605年11月に露見した火薬陰謀事件[87][88]の余波の中で書かれたものであると考えられるためである。とりわけ、第3幕における門番のセリフに出てくる"equivocation"(二枚舌。同一の曖昧な言葉を複数の意味で使用するという虚偽はどこまで許容されるかという議論も意味する)が、この事件に関与して処刑されたヘンリー・ガーネット神父(Henry Garnet)を指している可能性が高いことも指摘される[89]。オックスフォード派は、この"equivocation"はエリザベス1世の宰相ウィリアム・セシルによる1583年の政治論文もしくは1584年にスペインの高位聖職者マルチン・デ・アツピルクェタ(Martin de Azpilcueta)によって書かれ、ヨーロッパ中に広まって1590年代にはイギリスへも流入していた綱領で扱われていたテーマでもあると反論している[15]。ニュー・ケンブリッジ版全集においてA・R・ブラウンミュラー(A. R. Braunmuller)も、1605年以降の作品と断定するには根拠が薄弱であり、遅くとも1603年以降と見ておくのが妥当であると述べている。またオックスフォード派は、王の殺害と王位簒奪を主題としている作品であることから、『マクベス』がジェームズ1世の即位(1603年)を祝うために書かれたという定説をも疑問視している。
アメリカの連邦議会議員にしてSF作家、またアトランティス大陸理論家でもあるイグネシアス・ドネリー(Ignatius L. Donnelly)は、著書『偉大な暗号文:シェイクスピア作と称されたる戯曲に含まれたフランシス・ベーコンによる暗号』("The Great Cryptogram: Francis Bacon's Cipher in Shakespeare's Plays"、1888年)とその続編『戯曲および墓碑の暗号』("The Cipher in the Plays, and on the Tombstone"、1899年)において、シェイクスピアの戯曲の中に作者がフランシス・ベーコンであることを示す暗号化されたメッセージを発見したと書いているが、この暗号はドネリーにしか理解できないものであった。
作中の暗号メッセージ(であるかもしれないもの)として最も有名な例は、『恋の骨折り損』に登場する"Honorificabilitudinitatibus"という不可解な単語である。これが他にも多く「発見」された暗号の中でもとりわけ重要視されるのは、この単語がラテン語の"HI LUDI F.BACONIS NATI TUITI ORBI"(「これらの戯曲はF・ベーコンの作りて世に残すものなり」)という文章のアナグラムとなっていることがエドウィン・ダーニング=ロレンス(Edwin Durning-Lawrence)によって明らかにされたためである。ただし、コンピュータのない時代のアナグラム研究は、文字を配列する順序が解読者の恣意に任されている(例えばB、A、C、O、Nの順に拾い、残った文字で辻褄を合わせる)ため、解読者の望む通りの答えに至りやすいこと、解答は全ての可能な配列の内の1つでしかないことが忘れられがちであることなどには留意する必要がある。事実、この単語は"UBI ITALICUS IBI DANTI HONOR FIT"(イタリア人がいれば、名誉はダンテのもの)などとも並べ替えることができ、やがて"ABI INIUIT F.BACON HISTRIO LUDIT"(ベーコンよ去れ。あの俳優が登場して演技中だ)という別解を示されてダーニング=ロレンスは自説を撤回した。そもそもこの単語はシェイクスピアの造語ではなく、シェイクスピア以前からごくまれにではあるが他の作家によっても使用されていたため、ベーコン説を強く支持するものとはなりえない。Honorificabilitudoという語が1187年に書かれたラテン語の憲章にあり、1300年にはhonorificabilitudinitasという語が現れている(いずれも意味は「面目」「敬意に値すること」など)。ダンテの『俗語論』(1304年 - 1307年)にも、長い単語の例としてhonorificabilitudinitateが挙げられている。『オックスフォード英語辞典』によると、シェイクスピアと同時代(1599年)にはトマス・ナッシュ(Thomas Nashe)が同じHonorificabilitudinitatibusの語形でこの語を使用している。スコットランド語で書かれた作者不詳の書物"The Complaynt of Scotland"(1549年)や、ジョン・マーストン(John Marston)の戯曲"The Dutch Courtesan"(1605年)でも使用されているが、これらの作品をベーコンが書いたものだと主張している者はいない。
この文書は、1609年にアメリカのヴァージニア植民地へ向かうイギリス船Sea Venture号がバミューダ諸島沖で嵐に巻き込まれて難破した際の様子を記述したもので、帰還した乗客の1人であった作家ウィリアム・ストレイチー(William Strachey)がヴァージニア会社と関わりのある「高貴な女性」に宛てて綴った書簡であり、1610年に書かれたと伝えられている。同年中には、この書簡(公刊されたのは1625年だが、写しが出回っていたと推測されている)やシルヴェスター・ジョーダン(Sylvester Jordain)の『バミューダ島発見記』("A Discovery of the Bermudas"、通称「バミューダ・パンフレット」)が広く読まれていたので、嵐の描写の類似などからシェイクスピアがこれらを参照していたというのが定説になっている[81][94]。そのため、この書簡は20世紀初頭以降の研究者から重要視されてきたのである。しかし1970年代には、この書簡の重要性は正統派の学者からさえ疑問視されるようになった。文学者のケネス・ミューアが「私が思うに、バミューダ・パンフレットがこの作品に及ぼした影響の大きさは誇張されているのではないか」と疑義を表明したのである[95]。ミューアは、ストレイチーの報告書よりも前に書かれたセント・ポールによるマルタでの難破報告書と『テンペスト』との間で共通する13の主題や言い回しを引用している[83]。
ストレイチー書簡が『テンペスト』の資料であったとすると、この戯曲はオックスフォード伯の死後に書かれたものであることになるため、この書簡の存在はオックスフォード派に対する強い反証となっていた。しかし、21世紀に入ってからの研究者の間ではシェイクスピアがこの書簡に基づいて『テンペスト』を執筆したという説に疑義が呈されるようになった。ニュー・ケンブリッジ版全集の編集者デヴィッド・リンドレイによれば、ストレイチー書簡は『テンペスト』の資料であった可能性はあるが、オウィディウスやモンテーニュのように、それがなければ書けなかったという程の資料ではない[96]。オックスフォード派研究者はこれに賛同し、加えてその他の先行する資料の重要性を指摘している。特にリチャード・エデンの"The Decades of the New Worlde Or West India"(1555年)[97]やエラスムスの"Naufragium"("The Shipwreck"、1523年)[98]は、言葉やイメージに関してストレイチー書簡よりも多くの類似点が見られるという新しい研究成果を発表している[99]。
オックスフォード派のさらなる研究成果としては、リチャード・ハクルート(Richard Hakluyt)の著書『イギリス国民の航行・航海・交通および発見』("The Principal Navigations, Voyages, Traffiques and Discoveries of the English Nation"、1598年 - 1600年)[100]に、やはりバミューダ沖で1593年に起きたエドワード・ボナヴェンチャー号(Edward Bonaventure)の難破についてのヘンリー・メイ船長による目撃証言が掲載されているという事実の発見などがあり、バミューダ沖での海難事故は他にも起きていたこと、シェイクスピアが参照したのがストレイチー書簡ではなくこちらの事件報告であった可能性があることなどが指摘されている。この船に関するさらに注目すべき事実として、探検家マーティン・フロビシャーが1582年にレスター伯へ宛てた手紙の存在がある。この手紙でフロビシャーはオックスフォード伯が自分に投資してこの船を買い与えてくれたこと、すなわちオックスフォード伯がこの船の所有者であった時期があることを明らかにしているのである[101]。
ヴィクトリア朝時代におけるベーコン全集の編纂者であり、ベーコンに関する深い学識をもって反ベーコン派の立場を貫いたジェームズ・スペディング(James Spedding)は、『マクベス』の中のある一節はウォルター・ローリーの処刑をほのめかしたものではないかとの新説を提唱した[104]。ローリーが処刑されたのは1618年、すなわちシェイクスピアの死後2年目、オックスフォード伯の死後14年目のことである。問題の一節は、マクベスに殺害されるスコットランド王ダンカンの長男マルカムが「不誠実な裏切り者/コーダーの領主」("disloyall traytor / The Thane of Cawdor")が処刑されたときの様子を述べた、第1幕第4場冒頭のセリフである。
Duncan. Is execution done on Cawdor? Or not those in Commission yet return’d? Malcolme. My Liege, they are not yet come back, But I have spoke with one that saw him die : Who did report, that very frankly hee Confess’d his Treasons, implor'd your Highnesse Pardon And set forth a deepe Repentance: Nothing in his Life became him, Like the leaving it. He dy’de, As one that had been studied in his death, To throw away the dearest thing he ow’d, As ’twere a carelesse Trifle.
死刑執行を目前に控えたローリーの気軽な様子をいくつかの資料が記しており[105][106]、「彼の審理を行なう委員会はまだ戻っていなかった」という文言から、処刑が極めて迅速に執行された(反逆罪容疑による裁判の次の日であった)ことが窺われる。『マクベス』の主要な種本となったラファエル・ホリンシェッド(Raphael Holinshed)の『年代記』("The Chronicles of England, Scotland and Ireland")では、「王に対する反逆容疑で非難されたコーダー領主」[107]に関して特別な詳細は書かれていないので、上記のような描写はシェイクスピア(もしくは別の真作者)による創作ということになる。シェイクスピア作品にローリーの処刑に関する言及があったとすると、これはベーコン派にとって特に有利な証拠となる。というのも、上述の通りローリーの処刑はシェイクスピアやオックスフォード伯を初めとする大半の候補者の死後の出来事であり、しかもベーコンは枢密院からローリーの身辺調査をするよう任命された6人の審議会委員の1人だったからである[108]。
^James Spedding, "The Life and Letters of Francis Bacon" (1872), Vol.7, p.228-30 (遺言に「とりわけ、私の記した頌歌"in felicem memoriam Reginae Elizabethae"はぜひとも刊行してもらいたい」との言葉がある)
^G. E. Bentley, "The Profession of Dramatist in Shakespeare's Time: 1590-1642" (Princeton: Princeton UP, 1971)
^“Famous Shakespeare Authorship Skeptics | Shakespeare Oxford Fellowship”. shakespeareoxfordfellowship.org. 2024年5月29日閲覧。 “Charlie Chaplin
“In the work of the greatest geniuses, humble beginnings will reveal themselves somewhere but one cannot trace the slightest sign of them in Shakespeare… Whoever wrote [Shakespeare] had an aristocratic attitude.””
^Jonathan Bate, "The Genius of Shakespeare" (London, Picador, 1997)
^Charlton Ogburn, "The Mysterious William Shakespeare", 1984
^Charlton Ogburn, "The Mystery of William Shakespeare", 1983, pp. 86-88.
^Roger A. Stritmatter, "The Marginalia of Edward de Vere's Geneva Bible: Providential Discovery, Literary Reasoning, and Historical Consequence" (PhD diss., University of Massachusetts at Amherst, 2001). Partial reprint at Mark Anderson, ed. The Shakespeare Fellowship (1997-2002) (Oxfordian website).
^Joseph Hall, Virgidemarium (1597-8), Book 2, Satire 1 ('For shame write better Labeo ...'); Book 4, Satire 1 ('Labeo is whip't and laughs me in the face ...'); Book 6, Satire 1 ('Tho Labeo reaches right ...')
^John Marston, The Metamorphosis of Pygmalion's Image And Certaine Satyres (1598), (see The Authour in prayse of his precedent poem, 'So Labeo did complain his love was stone ...' and 'Reactio' Satire IV ('Fond Censurer! Why should those mirrors seem ...')
^William Henry Smith, "Was Lord Bacon the author of Shakespeare’s plays?, A pamphlet letter addressed to Lord Ellesmere". (London, William Skeffington: 1856)
^William Henry Smith, "Bacon and Shakespeare: An Inquiry Touching Players, Playhouses, and Play-writers in the Days of Elizabeth". (London, John Russell Smith: 1857)
^Constance Pott, "Francis Bacon and His Secret Society" (London, Sampson, Low and Marston: 1891); Sirbacon.org, Constance Pott
^W. F. C. Wigston, "Bacon, Shakespeare and the Rosicrucians" (1890)
^James Spedding, "The Works of Francis Bacon" (1872), Vol.4, p.112.
^Leonard Dean, "Sir Francis Bacon's theory of civil history writing", in Vickers, Brian, (Ed.), Essential Articles for the Study of Sir Francis Bacon (Sidwick & Jackson: 1972), p.219.
^Francis Bacon, "Advancement of Learning", 1640, Book 2, xiii.
^James Spedding, 'Of the Interpretation of Nature' in "Life and Letters of Francis Bacon" 1872, Vol. 3, p.85. (「国家の特権的な地位に就くことさえできれば、私の仕事を支える組織や法的資格を意のままに操ることができるのだが……」とベーコンは書いている).
^James Boswell, "The Life of Samuel Johnson 1740-1795", Chapter 13
^Percy Bysse Shelly, "Defense of Poetry" (1821), p.10
^Ben Jonson, "Timber: or, Discoveries; Made Upon Men and Matter". (Cassell: 1889), pp. 60 - 61.
^ abJames Spedding, "The Works of Francis Bacon" 1872, Vol. 6, p. 267 - 274.
^E. K. Chambers, "The Elizabethan Stage", Vols I-IV (Clarendon Press: 1945)
^Desmond Bland, "Gesta Grayorum" (Liverpool University Press: 1968), pp. xxiv-xxv.
^James Spedding, "The Life and Letters of Francis Bacon" (1872), Vol. 1, p. 325.
^"Gesta Grayorum, The History Of the High and Mighty Prince Henry" (1688), printed by W. Canning in London, reprinted by Malone Society (Oxford University Press: 1914).
^Public Record Office, Exchequer, Pipe Office, Declared Accounts, E. 351/542, f.107v p. 40.
^E. K. Chambers, "The Elizabethan Stage", Vol. 1 (Clarendon Press: 1945), p. 225.
^ abcReginald Fletcher, (Ed.) "The Gray's Inn Pension Book 1569-1669", Vol. 1, (London: 1901), p. 101 - 107.
^John Nichols, "The Progresses, Processions, and Magnificent Festivities of King James the First", Vol. II (AMS Press Inc, NY: 1828), pp. 589 - 92.
^W. W. Greg, (ed.) "Gesta Grayorum". Malone Society Reprints. Oxford University Press, 1914. p. vi.
^James Spedding, 'A Brief Discourse tounching the Happy Union of the Kingdom of England and Scotland' (1603), in "The Life and Letters of Francis Bacon" (1872), Vol. 3, p. 98.
^James Spedding, "The Life and Letters of Francis Bacon", Vol. 6, (1872), p. 356
^George Steevens's 1793 edition of Shakespeare, quoted in "A New Variorum Edition of Shakespeare: Vol. 2: Macbeth", ed. Horace Howard Furness (Philadelphia: Lipincott, 1873), p. 44.
^A Modern Herbal: Heartsease; Warwickshire dialect is also discussed in Jonathan Bate, "The Genius of Shakespeare" OUP, 1998; and in M. Wood, "In Search of Shakespeare", BBC Books, 2003, pp. 17 - 18.