ヨークシャーの悲劇『ヨークシャーの悲劇』(ヨークシャーのひげき、A Yorkshire Tragedy)は、ジャコビアン時代の家庭悲劇。1608年に出版された。当初は作者をウィリアム・シェイクスピアとしてきたが、現代の評論家はそれを否定し、真の作者はトマス・ミドルトンが有力とされている。 テキスト『ヨークシャーの悲劇』は1608年5月2日に書籍出版業組合の記録に登録されたが、この時作者はウィリアム・シェイクスピアとされた。間もなくこの劇は「四折版」で出版されたが、出版した書籍商Thomas Pavierはもう一つのシェイクスピア外典『サー・ジョン・オールドカースル』(1600年)を出版した人物である。「四折版」の表紙にもウィリアム・シェイクスピア作と書かれ、さらに国王一座(シェイクスピアの劇団)によりグローブ座で上演されたとも書かれていた[注釈 1]。 1619年、ウィリアム・ジャガード(William Jaggard)の「フォールス・フォリオ」にこの劇は収められ、1664年にはシェイクスピアの「サード・フォリオ」第2版(Philip Chetwinde出版)に、他の6つの劇とともに追加された。 形式とジャンル『ヨークシャーの悲劇』はわずか10場で構成された珍しい劇である。印刷されたオリジナルのテキストには、「ALL'S ONE. OR, One of the foure Plaies in one, called a York-Shire Tragedy...(全部で1つ、つまり、ヨークシャーの悲劇と呼ばれた、1幕ものの4つの劇の1つ...)」であるとしている。これは明らかに、現存するものは全部で4つある劇の1つであることを意味している。この点から、この劇はジョン・フレッチャーの正典の1つ『Four Plays, or Moral Representations, in One』(1608年 - 1613年頃)に似たものだったに違いない。ちなみにフレッチャーは4つのうちの最後の2つを書き、残りは別の劇作家、おそらくネイサン・フィールド(Nathan Field)が書いた。こうした短編劇のアンソロジー形式はイングランド・ルネサンス時代から見られ、たとえば、『The Seven Deadly Sins』もそうである。しかし、失われた残り3つの劇がどんな内容で、作者が誰だったかはわからない。 ジャンルとしては「家庭悲劇(民衆悲劇)」である。これはイギリス・ルネサンス演劇のサブジャンルの1つで、普通の中流階級の人々の破滅に焦点を当てたものである。最初期の例では、やはりシェイクスピア外典に含まれる『フェヴァーシャムのアーデン』がある。 材源『ヨークシャーの悲劇』の筋は、子供の二人を殺害し、妻を刺した罪で1605年8月5日に処刑された、ヨークシャー、カルヴァリー・ホール(Calverley Hall)のウォルター・カルヴァリーの人物録に基づいている。この事件は当時有名なスキャンダルだった。同年6月に事件に関する冊子が出て、7月にはバラッドも作られた。年代記作者ジョン・ストウ(John Stow)も自分の『年代記』にこの事件を記している[1][2]。1607年にはジョージ・ウィルキンス(George Wilkins)が『The Miseries of Enforced Marriage(強制された結婚の不幸)』という題名で劇化した。ウィルキンスの劇と『ヨークシャーの悲劇』との関連に関しては、研究者の間で意見が分かれている。一方がもう一方を材源にしたという説もあれば、同じ作家の作品であるという説、2つの劇は基本的に関連のない別々の作品であるという説など、諸説ある[3]。 作者初期にはシェイクスピア作者説の可能性を認める評論家もいたが、過去2世紀、ほとんどの評論家はそれを疑問視してきた。現代では、テキストの内在的証拠から、トマス・ミドルトンが作者であることでほぼ同意が得られている[4]。トマス・ヘイウッド(Thomas Heywood)やジョージ・ウィルキンス説もあるが、それを支持する注釈者はほとんどいない[5]。 脚注注釈出典参考文献
外部リンク
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