アテネのタイモン『アテネのタイモン』(Timon of Athens)とは、ウィリアム・シェイクスピア作の戯曲。正式題名は、「アテネのタイモンの生涯」(The life of Tymon of Athens)。主人公は、伝説のアテネの人間不信家タイモン(Timon)で、同名の哲学者タイモン(Timon)の影響も考えられている。 シェイクスピアの作品でも曖昧かつ難解な作品の一つと見なされている。『アテネのタイモン』については研究者たちの間で議論が絶えない。主人公の変貌の過程や死など、いくつかの脱落がある奇妙な構造で、そのために、未完成説、合作説、実験作説と言われることが多い。書かれた時期に関しても、最初期、最後期、後期ロマンス劇の直前と諸説ある。「ファースト・フォリオ」など一般には「悲劇」に分類されているが、(悲劇の条件である)主人公が死ぬにもかかわらず、「問題劇」(喜劇)とする研究者もいる。 材源『アテネのタイモン』の材源となったものには、プルタルコスの『対比列伝・アルキビアデス伝』、ルキアノスの対話篇『人間嫌いタイモン』が挙げられる。 創作年代とテキスト『アテネのタイモン』が印刷されたのは、1623年の「ファースト・フォリオ」が最初である。 19世紀以降、『アテネのタイモン』の変わった特徴は、シェイクスピアと別の劇作家による共作の結果だという指摘がなされてきた。共作者の候補者の中でも最も有力と言われるのはトマス・ミドルトンで、最初に指摘されたのは1920年のことである[1]。1917年、J・M・ロバートソン(J. M. Robertson)は、ジョージ・チャップマン(George Chapman)をシェイクスピア作と言われる詩『恋人の嘆き』の作者かつ『アテネのタイモン』の考案者と主張した[2]。一方、ベルトルト・ブレヒト[3]、フランク・ハリス[4]、Rolf Soellnerら多くの人々はそうした説を否定して、『アテネのタイモン』は実験作であるという主張をした。もし誰かが別の作者の戯曲を改訂したら、それが定着してジャコビアン時代の演劇のスタンダードになったろうが、『アテネのタイモン』はそうならなかった。Soellnerはこの劇が変わっているのは、若い法学者たちが観客となるであろう法曹院で上演されたからだと主張した[5]。 しかし、ここ30年の間のテキストの言語学的分析の結果、この劇に含まれる多くの語・句・句読点の選び方が、シェイクスピアには稀だが、トマス・ミドルトンの戯曲では普通に使われているものであることがわかってきた。この言語的特徴は特定の場面に集中していて、『アテネのタイモン』がミドルトンとシェイクスピアの合作、それも後からどちらかが改訂したというよりも、共同で書いたことを示しているように見える[6]。オックスフォード版の編者John Jowettは「ミドルトンの存在がこの劇をおろそかにしていい理由にはならない」と書いている。「『アテネのタイモン』は、そのテキストが異なる資質を持った2人の劇作家の対話を表したものであるゆえに、いっそう興味深いものである」(p.2)。 とはいえ、これらの理論のどれひとつとして、研究者の間でコンセンサスが取れているものはない。 上演史シェイクスピアの存命中に上演された記録はないが、『アントニーとクレオパトラ』、『コリオレイナス』もそうで、研究者たちの多くはそれらと同じ頃に書かれたのだろうと信じている。痛々しいトーンは『コリオレイナス』や『リア王』に通じるものがある。1608年に出版されたジョン・デイ(John Day)の戯曲『Humour Out of Breath』の中に「取り巻きたちにすべてを与え、自分にはそれ以上のものを乞うた主人」という言及があるのは、おそらく『アテネのタイモン』のことだと思われ、もしそうであるならば、1608年以前に作られていたことになる。また、この劇で5番目に台詞の長い「詩人」役をシェイクスピア本人が演じたという説もある[7]。 1678年にトマス・シャドウェル(Thomas Shadwell)はこの劇を改作して『アテネのタイモン、または人間嫌い(The History of Timon of Athens, the Man-Hater)』という題名で上演した。この上演が人気があったことは、後にヘンリー・パーセルが作曲したことからも窺える。シャドウェルは新たに2人の女性キャラクター、タイモンの不実な婚約者メリッサと、タイモンに捨てられる忠節の夫人エヴァンドレを追加した。1768年にはジェームズ・ダンスが別の改作版を作り、1771年にもリチャード・カンバーランド(Richard Cumberland)がドルリー・レーン劇場(Theatre Royal, Drury Lane)での上演のための改作版(タイモンは死ぬ時にシェイクスピア版には出てこない娘エヴァドネをアルシバイアディーズに与える)を作っている。他には、1786年のトマス・ハル版(コヴェント・ガーデンで上演)、1816年のジョージ・ラム版(ドルリー・レーン劇場で上演)がある。改作はそこまでで、1851年のサドラーズウェルズ劇場でのサミュエル・フェルプス(Samuel Phelps)主演の上演からシェイクスピアのテキストに戻された[8]。 登場人物
あらすじタイモンの催す盛大な宴に多くの人々が集まってくる。タイモンが太っ腹な性格で、誰にでも物をくれるのが客たちの目当てだった。皆が皆タイモンを褒めちぎるが、哲学者のアペマンタスだけがタイモンをくそみそにけなす。ヴェンティディアスが負債で有罪になると聞くと、タイモンは代わりにその金を用立てる。しかし、タイモン本人は知ろうともしていなかったが、これまでの蕩尽が祟ってタイモン自身が多額の債権をかぶっていた。 ようやく事実を知ったタイモンはこれまで善意の限りを尽くしてくれた友人たちに借金を申し込む。しかし、ヴェンティディアスを含む全員が、聞かなかったふりをしたり、金がないと、タイモンを見放す。 タイモンは絶望のあまり、人間不信に陥り、宴に集まってきた友人たちに湯と石を浴びせかけて罵声を浴びせ、そしてアテネを去る。城壁の外の洞窟に一人住み、友人たちを、アテネを、倫理的価値観を覆す金を[9]、さらに全人類を呪う。 アテナイを追放され復讐を企てていたアルシバイアディーズの同情や、執事サーヴィリアスの変わらぬ忠義も、タイモンを元に戻すことはできなかった。 アルシバイアディーズが軍勢を率いてアテネに入場したところに、タイモンの孤独な死の報せが届く。タイモンは全人類を憎む墓碑銘を残していた。 大衆文化の中の『アテネのタイモン』
参考文献
日本語版テキスト
脚注
外部リンク
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