オーブリー・ハフ
オーブリー・ルイス・ハフ(Aubrey Lewis Huff, 1976年12月20日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州マリオン出身(テキサス州育ち)の元プロ野球選手(一塁手、三塁手、外野手、指名打者)。右投左打。 経歴プロ入りとデビルレイズ時代1998年のMLBドラフト5巡目でタンパベイ・デビルレイズから指名され入団。 2000年にはインターナショナルリーグの最優秀新人選手に選出され[1]、同年8月2日にはメジャーデビューを果たした。 2003年には全162試合に出場し、打率.311・34本塁打・107打点の成績でチーム三冠を達成。 2005年は4月18日に通算100本塁打を達成し、フレッド・マグリフの球団最多記録を更新[2]。しかし、6月末の時点で打率.252、5本塁打、38打点と不振に陥ってしまった。7月に入ると第4週にはプレイヤー・オブ・ザ・ウィークを受賞するなど、月間で打率.320、8本塁打、25打点と復調。だが、8月以降は打率.244と再び不振に陥ってしまい、ルー・ピネラ監督(当時)が「ウチの打線はオーブリー次第。彼が乗ってこないとチームも勢いが出ない[3]」と語ったように、チームも2年ぶりの最下位に終わってしまう。また、トレード期限間際には、当時レッドソックスの主砲だったマニー・ラミレスが絡んだ三角トレードでレッドソックスへ移籍するという噂も浮上するなど、低調なシーズンとなった[3]。 2006年は開幕直後に故障し5月に復帰したものの、5月終了時点で打率.176・2本塁打と不調に陥ってしまった。 アストロズ時代2006年7月12日にミッチ・タルボットとベン・ゾブリストとのトレードで、強打の外野手を求めていたヒューストン・アストロズへ移籍。初のナ・リーグ在籍となるアストロズ移籍後は、8月9日に自己ベストとなる1試合6打点を挙げた。シーズン通算では打率は前年より良かったが、21本塁打・66打点と前年より悪化。デビルレイズでは三塁手を務めたものの、アストロズでは主に外野手としてプレー。外野手のほかに三塁手・一塁手も務め、移籍後の68試合で13本塁打を放った。 オリオールズ時代2007年1月3日に3年2000万ドルでボルチモア・オリオールズへ移籍した[4]。ハフ獲得に際して当時の球団副社長だったマイク・フラナガンは、「彼こそがこのオフの間、探し続けていたタイプの打者だ。」と語っている[5]。また、ハフ自身も、「正直言って、これまで自分の在籍した中では一番のラインナップだと思っている。素晴らしい球場、素晴らしいファンがいる。デビルレイズ時代に何度も来たけど、月曜日のナイトゲームですら3万人入っていた。正直言って、これまでこんな歴史のあるチームでプレーしたことなんてないよ。」と新天地への期待について語っている[5]。 2007年は15本塁打と4年連続で減少。一塁や三塁の守備では捕球に難があり[6]、指名打者としての出場が増え、自己最多の78試合に指名打者として出場。6月29日にはサイクル安打を記録した。 2008年、指名打者としての出場がさらに増え、98試合に指名打者として出場。5月終了時点で打率.244だったが、6月から8月にかけて3割を上回る月間打率を記録し、打率.304・32本塁打・108打点の成績でシーズンを終え、5年ぶりに3割・30本塁打・100打点を達成。オフにシルバースラッガー賞(指名打者)とエドガー・マルティネス賞を初受賞。 タイガース時代2009年8月17日、マイナー1選手とのトレードでデトロイト・タイガースに移籍した。 ジャイアンツ時代2009年シーズン終了後にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。 2010年は打率.290・26本塁打・86打点でチーム内三冠を達成。さらに自身初のポストシーズン進出を果たした。 2014年1月4日に現役引退を表明。 選手としての特徴2003年と2008年には打率.300、本塁打30本、打点100打点を同時に達成している。スイングスピードが速く、ボールをアッパーカットで捉えず、ストライクゾーンに長くバットを保つスイングをする[7]。打席での我慢強さがあり、パワーのある打球をフィールドのあらゆる所へ飛ばすことができる[7]。また、塁上にランナーがいる時は、状況に応じた打撃ができる[7]。 守備は一塁手のほか、右翼手や左翼手、三塁手も守れる。一塁手や三塁手よりも、右翼手を守る時のほうがいい動きをする[7]。しかし、守備範囲も狭い[7]。 詳細情報年度別打撃成績
表彰
記録
脚注
関連項目外部リンク |
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