アンヘル・パガン
アンヘル・マヌエル・パガン(Ángel Manuel Pagán, 1981年7月2日 - )は、 プエルトリコのサンフアン出身の元プロ野球選手(外野手)。右投両打。 愛称はエル・カバージョ・ロコ(El Caballo Loco)またはクレイジー・ホース(Crazy Horse)[1]。 経歴プロ入りとメッツ傘下時代1999年のMLBドラフト4巡目(全体136位)でニューヨーク・メッツから指名され、翌2000年6月1日に契約。 2000年、傘下のアパラチアンリーグのルーキー級キングスポート・メッツでプロデビュー。19試合に出場して打率.361・8打点・6盗塁の成績を残した。 2001年はA-級ブルックリン・サイクロンズとA級キャピタルシティ・ボンバーズでプレー。A-級ブルックリンでは62試合に出場して打率.315・15打点・30盗塁の成績を残した。 2002年はA級キャピタルシティとA+級セントルーシー・メッツでプレーし、A級キャピタルシティでは108試合に出場して打率.279・1本塁打・36打点・52盗塁の成績を残した。 2003年はA+級セントルーシーでプレーし、113試合に出場して打率.249・1本塁打・33打点・35盗塁の成績を残した。 2004年はAA級ビンガムトン・メッツとAAA級ノーフォーク・タイズでプレーし、AA級ビンガムトンでは112試合に出場して打率.287・4本塁打・63打点・29盗塁の成績を残した。オフの11月19日にメッツとメジャー契約を結び[2]、40人枠入りを果たした。 2005年3月2日にメッツと1年契約に合意[3]。この年はAAA級ノーフォークで129試合に出場して打率.271・8本塁打・40打点・27盗塁の成績を残した。 カブス時代2006年1月25日に金銭トレードで、シカゴ・カブスへ移籍した[4]。開幕ロースター入りし、4月3日のシンシナティ・レッズ戦でメジャーデビュー。5回裏から右翼の守備に就き、3打数2安打1打点だった[5]。4月17日にハムストリングの故障で15日間の故障者リスト入りし[6]、6月30日に復帰。25歳の誕生日の7月2日に行われたシカゴ・ホワイトソックス戦で、メジャー第1号・第2号本塁打を放った[7]。この年は77試合に出場し、打率.247・5本塁打・18打点・4盗塁の成績を残した。 ![]() 2007年3月5日にカブスと1年契約に合意[8]。3月28日にAAA級アイオワ・カブスへ異動し[9]、そのまま開幕を迎えた。5月10日にメジャーへ昇格[10]。8月8日に大腸炎で15日間の故障者リスト入りし[11]、シーズンを終えた。この年は71試合に出場して打率.264・4本塁打・21打点・4盗塁の成績を残した。 メッツ復帰2008年1月5日にコーリー・コールズ、ライアン・マイヤーズとのトレードで、古巣のメッツに復帰[12]。3月4日にメッツと1年契約に合意し、開幕ロースター入りした。5月7日のロサンゼルス・ドジャース戦で左翼への飛球を追い、左翼スタンドに転落。左肩を負傷し、5月13日に15日間の故障者リスト入りした[13]。7月9日にルーキー級ガルフ・コーストリーグ・メッツで復帰。A+級セントルーシーやA-級ブルックリンでもプレーしたが、メジャー復帰はなかった。この年は31試合に出場して打率.275・13打点・4盗塁の成績を残した。 2009年1月20日にメッツと57万5000ドルの1年契約に合意し[14][15]、開幕ロースター入りした。右肘や鼠蹊部の故障に悩まされたが、自己最多の88試合に出場。打率.306・6本塁打・32打点・14盗塁の成績を残した。 ![]() 2010年2月9日にメッツと1年契約に合意[16]。正中堅手のカルロス・ベルトランが故障で離脱していたため、代役としてレギュラーに定着。ベルトラン復帰後も左翼手や右翼手のレギュラーに残り、151試合に出場して打率.290・11本塁打・69打点の成績を残した。37盗塁はリーグ2位だった。 2011年1月31日にメッツと350万ドルの1年契約に合意[17]。ベルトランが右翼へとコンバートされたため、正中堅手を任された。4月22日に15日間の故障者リスト入りし[18]、5月27日に復帰[19]。この年は123試合に出場して打率.262・7本塁打・56打点・32盗塁の成績を残した。 ジャイアンツ時代2011年12月7日にアンドレス・トーレス、ラモン・ラミレスとのトレードで、サンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍した[20]。 2012年1月16日にジャイアンツと485万ドルの1年契約に合意し[21]、開幕ロースター入りした[22]。この年は自己最多の154試合に出場し、8本塁打56打点29盗塁、打率.288だった。三塁打はリーグ最多の15本を記録するなどワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。オフの10月29日にFAとなったが、12月3日にジャイアンツと総額4000万ドルの4年契約で再契約した[23]。 ![]() 2013年開幕前の3月に開催された第3回WBCのプエルトリコ代表に選出された。 シーズンでは6月7日に左ハムストリングの故障で、15日間の故障者リスト入りし[24]、7月5日に60日間の故障者リストへ異動[25]。8月30日に復帰した[26]。この年は故障の影響で71試合の出場にとどまり、打率.282・5本塁打・30打点・9盗塁だった。 2014年は開幕ロースター入りし、開幕後は正中堅手として63試合に出場、打率.307と好調を維持していたが、6月25日に腰の故障で15日間の故障者リスト入りした[27]。 2015年4月10日のサンディエゴ・パドレス戦では、デレク・ノリスにガムを投げつけ一触即発の場面があった[28]。 2016年は129試合に出場し、キャリアハイとなる12本塁打を放ったが、シーズン終了後の11月3日に再びFAとなった[29]。 ジャイアンツ退団後2017年2月8日に第4回WBCのプエルトリコ代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした[30]。3月22日のアメリカ合衆国との決勝戦に敗れ、2大会連続で準優勝となった[31]。4月19日、2017年シーズンはどの球団とも契約しないことを発表した[32]。 翌年以降はどの球団とも契約を結んでいない。 詳細情報年度別打撃成績
表彰
背番号
代表歴脚注
関連項目外部リンク
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