ビリー・バトラー
ビリー・レイ・バトラー(Billy Ray Butler, 1986年4月18日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州クレイ郡オレンジパーク出身の元プロ野球選手(指名打者、一塁手)。右投右打。 経歴プロ入りとロイヤルズ時代2004年のMLBドラフト1巡目(全体14位)でカンザスシティ・ロイヤルズから指名され、プロ入り。同年は傘下のパイオニアリーグのルーキー級アイダホフォールズ・チュカーズでプロ1年目を終えた。 2005年はA+級ハイデザート・マーベリックスとAA級ウィチタ・ラングラーズに在籍し、カロライナリーグの最優秀新人に選出された[1]。 2006年もAA級ウィチタでプレー。119試合に出場して、打率.331・15本塁打・96打点という成績を残し、オールスター・フューチャーズゲームではMVPに選出された[2]。 2007年5月1日のロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム戦でメジャーデビューを果たしたが、10試合にメジャーで出場した後にマイナーへ降格。6月19日にマイク・スウィーニーが故障者リスト入りしたため、メジャーに復帰[3]。ロイヤルズで92試合に出場し、打率.292・8本塁打・52打点の成績でメジャー1年目を終えた。 2008年は、前半戦終了時点で2本塁打・19打点という数字しか残せていなかった。しかし後半戦は57試合の出場で、打率.305・9本塁打・36打点という成績を残した。 2009年はチーム1位となる183安打・51二塁打・58四球・93打点を記録。二塁打はハル・マクレーに次いで球団歴代2位となった[4]。 2010年は、158試合に出場していずれも自己最高となる打率.318・189安打を記録した。 2011年1月22日に4年3000万ドル(オプションも含めると最大で5年4250万ドル)でロイヤルズと契約を延長した[5]。このシーズンから打撃に専念するため、指名打者で出場するようになった。自己最多タイとなる159試合に出場し、打率.291・19本塁打・95打点という成績をマーク。3年連続打率3割には届かなかったものの、打点で自己記録を更新した。 2012年は、キャリアで初めてオールスターに選出された[6]。この年はキャリアイヤーとなり、安打・本塁打・打点等の部門で自己最高の数字を残したほか、打率も2年ぶりに3割台に復帰した。シーズンオフ、シルバースラッガー賞(指名打者部門)にも選出された。 2013年、全162試合に出場したが、打撃部門の多くで前年より数字を落とした。 2014年、チームはア・リーグを制覇したが、バトラーの成績は不振だった。10本塁打未満に終わったのはデビューイヤー以来の事であった。シーズンオフにオプションを破棄され、FAとなった。また、後述の移籍が決まった後には、地元の有力紙『カンザスシティ・スター』の広告ページを1ページ自腹購入し、感謝のメッセージを載せて別れを告げている[7]。 アスレチックス時代2014年11月19日にオークランド・アスレチックスと総額3000万ドルの3年契約[8]を結んだ[9][10]。 2015年は7年連続150試合以上となる151試合に出場した。二塁打を28本放って通算300二塁打を達成、ホームランも2年ぶりの15本以上だったが、前年の自己ワーストを更に更新する打率.251に留まった。 2016年8月19日にクラブハウス内でチームメートのダニー・バレンシアと取っ組み合いの喧嘩し、その影響でDL入りした[11]。この影響もあってか、9月11日に自由契約となった[12]。この年は、チームを出るまでに85試合に出場し、打率.276・4本塁打・31打点という打撃成績だった。 ヤンキース時代2016年9月15日にニューヨーク・ヤンキースとメジャー契約を結んだ。ヤンキース加入後は12試合に出場。打率.345・1本塁打・4打点だった。オフの11月3日にFAとなった[12]。 ヤンキース退団後以降はいずれの球団とも契約を結ぶことができず、正式に引退発表はしていなかったものの、2018年にはアイダホ州のソフトボールリーグでプレーした[13][14]。 2021年より、独立リーグ・パイオニアリーグに所属するアイダホフォールズ・チュカーズ[注 1]の打撃コーチに就任した[15]。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
表彰
記録
背番号
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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