エンリケ・コリャル
エンリケ・コリャル・モンテルビオ(Enrique Collar Monterrubio、1934年11月2日 - )は、スペイン・アンダルシア州セビーリャ出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。元スペイン代表。 経歴クラブ地元アンダルシア州のインペリアルCFとマドリードに拠点を置いていたペーニャ・ノリアを経て、1949年にアトレティコ・マドリードのカンテラに加入する[1]。1952年、兄のアントニオ・コリャルらとともに、当時テルセーラ・ディビシオン (3部)に所属していたカディスCFへとレンタルされた。カディスではプロ1年目ながらリーグ7ゴールを挙げた[2]。 レンタルバック後の1953-54シーズン、RCDエスパニョールとのリーグ開幕戦でアトレティコのトップチームデビューを果たした。しかし、その後は出番が限られ、シーズン公式戦出場わずか4試合と厳しい状況が続いた。翌シーズンも状況に改善の兆しが見られなかったため、出場機会を求めてセグンダ・ディビシオンのレアル・ムルシアへレンタル移籍をした[3]。加入後11試合で7得点を挙げるなど中心選手として活躍し、冬にアトレティコへ復帰した。また。ムルシアはシーズン終了後にプリメーラへと昇格を決めた。 アトレティコに復帰してからは、レギュラーの座を掴み、1959-60シーズンからは2シーズン連続でコパ・デル・ヘネラリッシモ (現コパ・デル・レイ)獲得、1961-62シーズンには自身初の国際タイトルであるUEFAカップウィナーズカップ優勝も経験した。後者の大会で優勝したこともあり、そのシーズン終了後のFIFAワールドカップを戦うスペイン代表に選出され、コリャルは大会1試合に出場した[4]。また、アトレティコでは、同じ左サイドを任されたホアキン・ペイロと抜群の相性を見せ、Ala infernal (直訳すると地獄の翼)と呼ばれ、1960年代のスペインを代表するコンビとなった[4]。 1965-66シーズン、クラブは史上5度目となるリーグ優勝を果たした。31歳となったコリャルもレギュラーとしてシーズンを戦い抜き、リーグ優勝に大きく貢献した。1968-69シーズン終了後、コリャルはクラブを退団した。すでに34歳だったことから、現役引退も予想されたが、現役ラストシーズンと決めてバレンシアCFに移籍した。しかし、バレンシアではシーズン15試合1得点とキャリアワーストとなる成績になってしまった。そしてシーズン終了後に現役引退を発表した[4]。 代表1955年6月19日、スイス代表との親善試合でスペイン代表デビュー。デビュー後、定期的に代表招集を受け、1962 FIFAワールドカップと1964 欧州ネイションズカップに参加したが、W杯に1試合出場したのみで、ゴールも記録できなかった[4]。 タイトルクラブ
代表
関連項目脚注
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