エド・カーペンター
エヴェレット・エドワード・カーペンター・ジュニア(Everette Edward Carpenter, Jr., 1981年3月3日 - )は、アメリカ合衆国のレーシングドライバー。カーペンターはインディ・レーシング・リーグの創設者トニー・ジョージの継子であり、現在はIZODインディカー・シリーズにエド・カーペンター・レーシングから参戦している。 経歴初期ミジェットカーで輝かしい経歴を積み重ね、2002年にインフィニティ・プロ・シリーズに参戦する。シンデン・レーシングに加わり、シリーズランキングは3位、レースでの最高位は2位であった。翌年はA.J.フォイト・エンタープライゼスに移籍、シリーズで最も伝統のあるファイアストン・フリーダム100で優勝する。同年後半にはPDMレーシングからインディ・レーシング・リーグへのデビューを果たした。 インディカー・シリーズ2004年、チーバー・レーシングからインディカーにフル参戦する。チームメイトは経験豊富なアレックス・バロンで、そのペースに合わせるために苦戦し同シーズンの最高位は8位であった。2005年、継父のトニー・ジョージがヴィジョン・レーシングを創設し、そのチームと契約する。しかしながら、同年の成績は10位が最高で、ランキングは18位であった。 2006年3月26日、トヨタ・インディ300のウォームアップでポール・ダナとの大クラッシュに巻き込まれた。ダナは負傷のため間もなく死亡した。肺挫傷を負ったものの、翌日には退院した。4月22日、ツインリンクもてぎ戦でシリーズに復帰した。第5戦のワトキンス・グレンは雨のレースとなり、他のドライバーがスリックタイヤでいた中彼はレインタイヤに換装、自身最高位の6位でフィニッシュした。 2007年、ヴィジョン・レーシングは3台目のマシンを投入したが、前年同様の成績であった。17戦中5戦でクラッシュし、ランキング15位とヴィジョン・レーシングの中で最下位であった。2008年になるとベテランのトーマス・シェクターがチームと契約できなかったため、チームメイトはA.J.フォイト4世のみであった。シーズン序盤は勝利を望める位置で走行することがしばしばあったが、結果はなかなか残せず、彼のシーズンはシカゴランド・スピードウェイでの炎上クラッシュで終わりを告げた。 ![]() 2009年シーズンはゆっくりと始動し、序盤の2戦は市街地コースで行われたが、共に下位に沈んだ。オーバルコースとなったカンザスおよびインディ500ではトップ10入りしたが、当時妻のヘザーは第2子を妊娠中であった。ミルウォーキー戦の後に子どもを出産。同年のハイライトはケンタッキー・スピードウェイでの2位表彰台であった。レースではトップを5回、34周にわたって走行し、ペンスキー・レーシングのライアン・ブリスコーとサイド・バイ・サイドのバトルを繰り広げたが、.0162秒差で後塵を拝する形となった。 2011年はサラ・フィッシャー・レーシングと契約、セントピーターズバーグを始めとする9戦に参加した[1]。彼は同年のケンタッキー・インディ300で初優勝を果たした。レースはダリオ・フランキッティに0.0098秒差という僅差での優勝であった。 2012年、エド・カーペンター・レーシングを立ち上げチームオーナー兼ドライバーとしてインディカー・シリーズに参戦。同年の最終戦フォンタナではチームとしての初優勝を挙げ、翌2013年のインディ500ではポールポジションを獲得した。 また2018年のインディ500においてもポールポジションを獲得した。 記録アメリカン・オープンホイールインディ・ライツ
インディカー・シリーズ
インディ500
参照外部リンク
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